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上告理由書 目次
 上告理由書 目次
 
第1 『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』による上告人梅澤裕に対する名誉毀損の不法行為の成否に関する憲法解釈の誤りないし憲法違反
1 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・2
 
2 最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決等と相反する判断は憲法違反・・2
(1)真実性・真実相当性の法理への違背・・・・・・・・・・・・・・・・・2
(2)最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決への違背・・・4
(3)最高裁の判例理論への違背の重大性・・・・・・・・・・・・・・・・・6
(4)原判決は事例判決ではないこと・・・・・・・・・・・・・・・・7
 
3  原判決の定立した新基準の不当性と最高裁判例への違背等・・・8
(1)はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(2)新基準を定立する必要性の不当について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
ア  はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
  イ  言論出版の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由等は理由として不当
                                  ・・・・・・・・・・・8
   ウ  「著者に対する負担等と言論への萎縮効果への懸念」は理由として失当・・10
   エ  「主張・批判・再批判の過程の保障の必要」も理由として失当・・・・・・・・13
(3)新基準の適用場面の曖昧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
    ア  明白性等の基準の適用場面についての原判決の摘示・・・・・・・・・・・・・・16
  イ あてはめの困難性と価値判断上の問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
   (ア)「々眦戮文共の利害に関する事実」という要件について・・・・・・・・・・17
   (イ)「つ糠にわたって出版を継続してきた」という要件について・・・・・・・・17
(4)新基準の3要件の不当な厳格性と名誉権に関する解釈の誤り・・・・・・・・・19
    ア  はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
  イ 明白性の要件について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
  (ア)二重の加重の不当性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
  (イ)「現実の悪意の法理」と実質的に同一・・・・・・・・・21
   ウ 重大不利益の要件について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
  (ア)「読まれ方変遷論」の採用は不当・・・・・・・・・・・・・・・・・22
       a 原判決が重視した「読まれ方の変化」・・・・・・・・・・・・・22
       b 昭和31年判決、平成15年判決への違背・・・・・・・・・・・・26
       d 平成9年5月27日夕刊フジ事件判決への違背等・・・・・28
    (イ)名誉の意義あるいは名誉権侵害における結果の捉え方の誤り及び最高裁判例違背・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
    a はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30・・・23
       c 平成9年9月9日判決への違背等・・・・・・・・・・・・・・・・・
        b 名誉感情との混同・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
        c 名誉権侵害の結果の捉え方の誤り・・・・・・・・・・・32
    (ウ)重大不利益の要件についての補足・・・・・・・・・・・・33
        a 法体系の統一性を害する解釈・・・・・・・・・・・・・・・33
        b 不利益性の認定の不当・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
    c 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対し・・・・・35
    d 提訴の目的の評価について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
  エ 社会的非許容性の要件について・・・・・・・・・・・・・・・・・38
(5)歴史的事実論の不当性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
ア 原判決の論及する歴史的事実論・・・・・・・・・・・・・39
イ 歴史的事実論の欺瞞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
 
第2 『沖縄ノート』による上告人赤松秀一に対する、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否に関する憲法解釈の誤りないし憲法違反並びに理由不備・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
1 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
 
2  敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否についての憲法解釈の誤りないし憲法違反
・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
(1)明白性等の基準を用いたことの誤り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
(2)本件で真実性・真実相当性の法理が用いられるべき理由・・・・46
(3)明白性等の基準とその適用の不当性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
  ア はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
  イ  適用場面の問題−「歴史的事実」化する前に真実相当性を喪失していること−
・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
  ウ  「読まれ方変遷論」の不当・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
    エ 名誉の捉え方について名誉感情等との混同・・・・・・・・・・54
    オ 不利益性の認定の不当・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55
    カ 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対して・・55
    キ まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・56
 
3  理由不備・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
(1)請求原因として挙げた期間の不法行為の全部についての判断の遺漏・56
(2)遺漏した判断の重要性と原判決における誤魔化し・・・・・・57
(3)判断遺漏の点の重要性と判決の結論への影響・・・・・・・・58


沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会ブログ
http://blog.zaq.ne.jp/osjes

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上告理由書 理由の要旨


 

上告理由書 理由の要旨

 

第1 『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』による上告人梅澤裕に対する名誉毀損の不法行為の成否に関する憲法解釈の誤りないし憲法違反

1 はじめに

  原判決は,憲法13条及び21条の解釈の誤りないしそれらに対する違反があって、その憲法解釈の誤りないし憲法違反が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである。

2 最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決と相反する判断は憲法違反

(1)真実性・真実相当性の法理への違背

    原判決の採用した真実性・真実相当性の法理とは完全に異なる明白性等基準は,最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決(昭和37年(オ)第815号・民集20巻5号1118頁)と相反する憲法違反である。原判決の同昭和41年判決への違背は、単に民法709条という法令の解釈の誤りにとどまらず、憲法13条の規定する幸福追求権の具体化たる人格権の一つである名誉権についての解釈の誤り、あるいはその名誉権と憲法21条の規定する表現の自由との調整において名誉権の保護を不当に後退させた解釈の誤りという意味で、憲法の解釈の誤りないし憲法の違反にも該当する。

    憲法13条に基づく人格権としての名誉権と表現の自由の調整についての解釈の具体化といえる同昭和41年判例にしたがった真実性・真実相当性の法理によって判断されれば、結論にも重大な影響を与える。

(2)最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決への違背

    名誉毀損行為時点の真実相当性の有無を判断しないのは,最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決(平成8年(オ)第576号・判例時報1778号49頁)と相反する憲法違反である。同平成14年判例も,憲法13条に基づく人格権としての名誉権と表現の自由の調整についての解釈の具体化といえ,その結論への影響は重要である。

(3)最高裁の判例理論への違背の重大性

    最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決(昭和37年(オ)第815号・民集20巻5号1118頁)は,多数の判例が引用する確固たる判例であり,これに反する原判決基準は,やはり,憲法違反であり,その結論への影響は重要である。

(4)原判決は事例判決ではないこと

  原判決は事例判決ではなく,憲法違反は是正されなければならない。

  原判決の定立した新基準の不当性と最高裁判例への違背等

(1)はじめに

    原判決の定立した新たな基準である「明白性等の基準」は、新基準定立の必要性自体の問題性、適用場面の曖昧さ、定立された3要件の不当なまでの厳格さ(名誉権保護の不十分さ)が、不当性として指摘できる。この中での原判決の解釈も、憲法13条に基づく名誉権の保護と憲法21条に基づく表現の自由の保護とを調整した各最高裁判例に違反しており,憲法の解釈の誤りないし憲法の違反があり,かかる憲法解釈の誤りないし憲法違反は判決に影響を及ぼすものである。

(2)新基準を定立する必要性の不当について

    原判決の新基準定立について必要とされる,

言論出版の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由等

「著者に対する負担等と言論への萎縮効果への懸念」

新資料をもって名誉毀損の是正を図ろうといる被害者の行為を、「蒸し返し」などと否定的に断ずる原審の人権感覚

「主張・批判・再批判の過程の保障の必要」

   等の理由付け乃至価値観は,表現の自由と名誉権の保護を適切に調整しながら自由かつ公正な言論の発展を担保している真実性・真実相当性の法理の意義をまるで理解しないもので,憲法の解釈の誤りないし憲法の違反があり,かかる憲法解釈の誤りないし憲法違反は判決に影響を及ぼすものである。

(3)新基準の適用場面の曖昧

    明白性等の基準が適用されるか、通常どおり真実性・真実相当性の法理が適用されるかは、結論を左右するほどの極めて重大な問題であることは言うまでもないが、上記の適用場面の要件は非常に曖昧で解釈とあてはめが容易ではない。「長年にわたって出版を継続してきた」とか「歴史的事実」といったような曖昧な括りの中に、重大な名誉毀損事件の問題性を強引に押し込めて、救済の機会を著しく狭めてしまう原判決の基準は,表現の自由と名誉権の保護を適切に調整しながら自由かつ公正な言論の発展を担保している真実性・真実相当性の法理の意義を没却し,かかる真実性・真実相当性の法理により保護されるべきとされた名誉権にかかる憲法の解釈の誤りないし憲法の違反があり,かかる憲法解釈の誤りないし憲法違反は判決に影響を及ぼすものである。

(4)新基準の3要件の不当な厳格性と名誉権に関する解釈の誤り

原判決が定立した新基準は,意義の不明確さ、名誉権の保護の観点からみたときの不当なまでの厳格性、要件の解釈やあてはめにおける名誉権に関する解釈の誤りや最高裁判例違背がみられ,憲法の解釈の誤りないし憲法の違反があり,かかる憲法解釈の誤りないし憲法違反は判決に影響を及ぼすものである。

特に,立証責任の転換の点と立証程度の加重という点で請求者側からすると二重の加重をする点,最高裁が否定する「現実の悪意の法理」と実質的に同一である点,一般人の普通の注意と読み方を基準とすることなく事実の摘示と意見ないし論評の表明との区別との区別を曖昧とし名誉毀損表現の媒体の性格を重視する「読まれ方変遷論」は,多数の最高裁判例に違反する明らかな憲法違反である。

また,原判決は,名誉の意義を名誉感情と混同し,名誉権侵害の結果について具体的危険ないしは現実の社会的評価の低下を要求しており,最高裁判例に違反する明らかな憲法違反がある。

更に,原判決の基準は,社会的許容性,すなわち「社会で概ね共有できる認識」を要件として要求しており,名誉毀損被害者の名誉回復の機会を実質上閉ざすものであり,やはり,最高裁判例に違反する明らかな憲法違反がある。

 (5)歴史的事実論の不当性

    原判決の論ずる歴史的事実論は,「歴史的事実」をマジックワードのようにして、本件訴訟の争点を論評の世界の議論にすり替え,本来の争点である「『無慈悲直接隊長命令』という単純事実の真実性」という点から、「『評価としての軍命令』の当否」へと争点を無理にスライドさせようとした被上告人らの主張に同調したものである。真実性の立証のない事実の摘示による、しかも住民の大量虐殺という内容の上告人らの社会的評価に対する重大な侵害を行う表現について損害賠償や出版停止等を求める本件訴訟の実相を無視した原判決の判断は,名誉権にかかる憲法の解釈の誤りないし憲法の違反があり,かかる憲法解釈の誤りないし憲法違反は判決に重大な影響を及ぼすものである。

第2 『沖縄ノート』による上告人赤松秀一に対する、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否に関する憲法解釈の誤りないし憲法違反並びに理由不備

1 はじめに

   赤松秀一の控訴を棄却した原判決には、以下のように憲法13条及び21条の解釈の誤りないしそれらに対する違反、並びに理由不備(民事訴訟法312条2項6号)があって、それら憲法解釈の誤り、憲法違反及び理由不備が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄されるべきである。

  敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否についての法令解釈の誤り

  (1)明白性等の基準を用いたことの誤り

  原判決の判断は,単に民法709条という法令の解釈の誤りにとどまらず、憲法13条の規定する幸福追求権の具体化たる人格権の一つである遺族の故人に対する敬愛追慕の情についての解釈の誤り、あるいはその遺族の故人に対する敬愛追慕の情と憲法21条の規定する表現の自由との調整についての解釈の誤りという意味で、憲法の解釈の誤りないし憲法の違反にも該当する。憲法的価値観を具体化した真実性・真実相当性の法理を適用すれば,結論にも重要な影響を与えることも明らかである。

(2)本件で真実性・真実相当性の法理が用いられるべき理由

本件は,〔祥生△箸い人格権に由来する法益,過去の下級審判例,『沖縄ノート』は赤松大尉生前からの出版であること,ぁ嵶鮖謀事実」であることに基づく要件の厳格化は不当,デ烝靴紡个垢詭祥脊迷擦良塰々坩戮糧獣粘霆爐箸龍儿佞陵由から,憲法的価値観を具現化した真実性・真実相当性の法理が用いられるべきであり,原判決には,結論に重要な影響を与える憲法の解釈の誤りないし憲法の違反がある。

(3)明白性等の基準とその適用の不当性

     明白性等の基準を本件に適用するには,前記上告人梅澤の請求にかかる同じ問題乃至更に別の,適用場面の問題−「歴史的事実」化する前に真実相当性を喪失していること−,「読まれ方変遷論」の不当名誉の捉え方について名誉感情等との混同,不利益性の認定の不当,「故意過失の主張が欠ける」との指摘の失当さがあり,赤松秀一請求部分についてみても、全体として、原判決の判断は、「表現、言論の自由の保護」に傾きすぎ、「死者に対する敬愛追慕の情の保護」をあまりにも蔑ろにしている解釈であると言わざるを得ない。やはり,原判決には,結論に重要な影響を与える憲法の解釈の誤りないし憲法の違反は明らかである。

  理由不備

  (1)請求原因として挙げた期間の不法行為の全部についての判断の遺漏

原判決は,赤松大尉が死去した昭和55年1月13日以降の期間,仮に除斥期間を適用し、平成17年8月5日の提訴から20年前以降の不法行為を問題とするとしても、昭和60年8月5日以降の部分について判断が必要なはずであるが,判断をしていない。請求原因としてあげた期間の不法行為の全部について判断の遺漏がある。

  (2)遺漏した判断の重要性と原判決における誤魔化し

   原判決は,いつの時点で「長年にわたって出版を継続してきた」すなわち歴史的事実になったかということと、いつの時点で「新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだ」すなわち真実性・真実相当性が喪失したかということの判断を怠っている。

   原判決は「歴史的事実」を理由に特別な新基準である明白性等の基準を用いたが、そのような考え方を是としても、歴史的事実化する以前の分については、当然真実性・真実相当性の法理をもって判断せねばならぬはずである。

  (3)判断遺漏の点の重要性と判決の結論への影響

原判決の判断遺漏は,真実性・真実相当性の法理適用結果とは完全に異なり,また,明白性等の基準が仮に妥当するとしても,判決の結論へ重要な影響を及ぼす理由不備がある。 

   以 上

なお,上記項目は,上告理由書本文と合わせた。

author:osj2, category:-, 16:56
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上告理由書 第1の1及び2
 



大阪高等裁判所平成20年(ネオ)第400号
上 告 人 梅澤 裕、赤松秀一
被上告人 株式会社岩波書店、大江健三郎
 
上 告 理 由 書
 
                       平成20年12月29日
 
最高裁判所 御中
 
            上告人ら代理人
             弁護士  松本藤一
 
               同    徳永信一
 
               同    岩原義則
 
               同    大村昌史
 
               同    中村正彦
 
               同    木地晴子


第1 『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』による上告人梅澤裕に対する名誉毀損の不法行為の成否に関する憲法解釈の誤りないし憲法違反
1 はじめに
 上告人梅澤裕(以下「梅澤」という)の控訴を棄却した原判決には、以下のように、憲法13条及び21条の解釈の誤りないしそれらに対する違反があって、その憲法解釈の誤りないし憲法違反が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである。
 
2 最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決と相反する判断は憲法違反
(1)真実性・真実相当性の法理への違背
 民事上の不法行為たる名誉毀損の成否については、「その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である」との最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決(昭和37年(オ)第815号・民集20巻5号1118頁。以下「これを昭和41年判決」という)が示した基準が、これまで確立、維持されてきた判例法理であるところ(以下、これを「真実性・真実相当性の法理」という)、本件の名誉毀損の成否に関し、原判決は、長年にわたって出版が継続されてきたが新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだというような場合にあっては、その出版の継続は、「/靴燭併駑租により当該記述の内容が真実でないことが明白になり、他方で、当該記述を含む書籍の発行により名誉等を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けているなどの事情があり、E該書籍をそのまま発行し続けることが、先のような観点や出版の自由などとの関係を考え合わせたとしても社会的な許容の限度を超えると判断されるような場合」(原判決121頁)にのみ不法行為を構成するとの判断を示した(以下これを「明白性等の基準」と呼ぶこととする)。
 昭和41年判決の解釈に従えば、本件のように長く継続されている出版も「現に行われている表現行為」である以上、その名誉毀損の不法行為の成否は当然に真実性・真実相当性の法理によって判断されるべきところ、原判決は、出版が継続されているケースのうち一定の場合においては、真実性・真実相当性の法理とは全く異なる基準によって名誉毀損の成否が判断されるべきとの解釈を示しており、原判決には、昭和41年判決に相反する判断がある。
  原判決の昭和41年判決への違背は、単に民法709条という法令の解釈の誤りにとどまらず、憲法13条の規定する幸福追求権の具体化たる人格権の一つである名誉権についての解釈の誤り、あるいはその名誉権と憲法21条の規定する表現の自由との調整において名誉権の保護を不当に後退させた解釈の誤りという意味で、憲法の解釈の誤りないし憲法の違反にも該当する。
 一審、控訴審を通じて、上告人らが縷々主張してきたとおり、『太平洋戦争』(文庫版。原判決別紙書籍目録1の書籍。特に断りのない限り以下同じ)及び『沖縄ノート』(原判決別紙書籍目録2の書籍)において叙述されている梅澤による座間味島住民らへの自決命令の事実について、真実性は認められない(この点は、一審判決、控訴審判決も揃って認めているところである)。そして、その事実については、『沖縄ノート』は、昭和60年ころないし平成元年ころのいずれかの時点(この間、昭和60年7月30日神戸新聞報道〈甲B9〉、昭和61年6月6日神戸新聞報道〈甲B10〉、昭和61年3月の『沖縄史料編集所紀要』の発表〈甲B14〉、昭和62年4月18日神戸新聞報道〈甲B11〉、同月23日東京新聞報道〈甲B12〉、昭和63年1月号小説新潮掲載『第一戦隊長の証言』の発表〈甲B26〉、平成元年7月の『座間味村史』上下巻の発表〈乙49、乙50〉などがあり、いずれの内容も《梅澤命令説》を否定するものであった)、あるいは、平成12年12月の『母の遺したもの』(甲B5)の出版の時点から、あるいはどんなに遅くとも平成13年12月に同書が沖縄タイムス出版文化賞を受賞して(甲B93)その社会的評価が確立し周知されたときから、真実相当性を喪失していたものである。また同じく、梅澤による座間味島住民らへの自決命令の事実については、『太平洋戦争』は、平成14年の出版開始当初から、真実相当性を有しなかった。そのような真実相当性の喪失は、平成18年12月発表の文科省の平成18年度の教科書検定意見や、平成19年12月の教科書図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会がまとめた報告(甲B104)によっても、確認されているといえる。
 よって、憲法13条に基づく人格権としての名誉権と表現の自由の調整についての解釈の具体化といえる昭和41年判例にしたがった真実性・真実相当性の法理によって判断されれば、両書籍による梅澤に対する名誉毀損の不法行為の成立は肯定されるのであるから、原判決の前記憲法解釈の誤りないし憲法違反が是正されれば、それが判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
(2)最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決への違背
  原判決は、名誉毀損行為時点の真実相当性の有無を判断することなく名誉毀損の成立を否定する結論を導いており、最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決(平成8年(オ)第576号・判例時報1778号49頁。以下「平成14年判決」という)にも相反する判断をなしている。
 すなわち、平成14年判決は、「摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由が行為者に認められるかどうかについて判断する際には、名誉毀損行為当時における行為者の認識内容が問題になるため、行為時に存在した資料に基づいて検討することが必要となる」と判示し、真実相当性の判断基準時は名誉毀損行為時であるとの解釈を示しているが、原判決は、本件の名誉毀損行為時における真実相当性を判断することなく、事実について「新たな資料等により当該記述の内容が真実でないことが明白」になったことなどを要件とする明白性等の基準を用いており、最高裁判例違背がある。
  本件の被上告人らの梅澤に対する具体的な名誉毀損行為及びその時期は、『太平洋戦争』については、平成14年7月の出版開始時から原審の口頭弁論終結時まで継続された出版とそれに伴う出庫行為である(上告人らがなした出版等の差止請求に対して、被上告人らは出版・出庫の停止を主張しておらず、出版・出庫が継続されていたことは訴訟上も明らかである)。同書は文庫版になる前に、旧版(昭和43年の第1版、昭和61年の第2版)が出版されているが、当然のことながら、新たに文庫版として出版し出庫していくこと自体も、新たな不特定多数の読者に読まれ、梅澤の社会的評価を低下させるおそれを生じさせており、独立の「名誉毀損の行為」である。
 上告人らが『太平洋戦争』文庫版による名誉毀損を主張している以上、平成14年判決に従えば、平成14年の出版時とそれ以降の真実相当性を判断せねばならないはずであるが、原審は、独自の明白性等の基準を用いることにより、名誉毀損行為時の真実相当性の有無の判断を全くしていないのである。
 『沖縄ノート』については、具体的な名誉毀損行為及びその時期は、昭和45年9月の出版開始時から原審の口頭弁論終結時まで継続された出版・増刷とそれに伴う出庫行為である。控訴審において上告人らが強調したとおり、例えば、平成20年5月には59刷が増刷されており、この増刷とそれに伴う出庫も「名誉毀損の行為」である(出版・出庫を続けることは、日々継続される性質の不法行為ととらえることができる)。
 とすれば、やはり平成14年判決に従えば、昭和45年9月の出版開始時から原審の口頭弁論終結時までの継続する名誉毀損行為の各時点の真実相当性が判断されねばならないのであるが(具体的には、真実相当性がどの時点で喪失したかの認定が必要となろう)、原審は、独自の明白性等の基準を用いることにより、出版開始時の真実相当性を認定したのみで、その後継続された名誉毀損行為の期間の真実相当性の有無の判断をしていない。
 その意味で、原判決の上記の解釈は、憲法13条に基づく名誉権と表現の自由の調整についての解釈を具体化した平成14年判決の判断に相反するものであるという意味で、その判断には、憲法の解釈の誤りないし憲法の違反がある。その憲法解釈の誤りないし憲法違反が、判決の結論に影響を及ぼすことは、前記(1)同様明らかである。
(3)最高裁の判例理論への違背の重大性
  名誉毀損の成否について昭和41年判決に示された判断は、今日までの40年以上にわたり堅持され、前記平成14年判決も含め、下記の各最高裁判決において繰り返し確認、引用され、さらに内容的にもより高度に具体化されてきている。平成14年判決も、昭和41年判決の示した真実性・真実相当性の法理を具体化、精密化したものといえる。
 
○最大昭和56年(オ)第609号昭和61年6月11日判決(北方ジャーナル事件上告審判決)(民集40.4.872)
○最二小昭和55年(オ)第1188号昭和62年4月24日判決(反論文掲載請求事件)(民集41.3.490)
○最一小昭和60年(オ)第1274号平成1年12月21日判決(民集43.12.2252)
○最三小平成1年(オ)第1649号平成6年2月8日判決(民集48.2.149)
○最三小平成6年(オ)第978号平成9年9月9日判決(民集51.8.3804)
○最三小平成9年(オ)第411号平成11年10月26日判決(民集53.7.1313)
○最三小平成7年(オ)第1421号平成14年1月29日判決(ロス疑惑配信記事訴訟上告審判決)(民集56.1.185)
○最二小平成8年(オ)第852号平成14年3月8日判決(ロス疑惑配信記事訴訟上告審判決)(判時1785.38)
○最二小平成12年(受)第1335号平成15年3月14日判決(民集57.3.229)
○最一小平成15年(受)第900号平成17年6月16日判決(判時1904.74)
 
 ところが原判決の判断は、一定の場面においてではあるが、かように統一的かつ精緻に確立されてきた判例理論と全く整合しない新たな基準を定立するものであり、その当否については極めて慎重な判断が求められる。
(4)原判決は事例判決ではないこと
  原判決は、「本件訴訟の内容的な特色」(判決書4頁)を判決理由冒頭で指摘するなど、本件の特殊性や個別性を強調している面があるが、原判決は、特殊事例における個別判断を示したといういわゆる事例判決と評価されてはならない。その理由は以下のとおりである。
 まず、原判決の判断の中核ともいえる出版等の継続の場合の不法行為の基準論については、判決書121、122頁で判示されているが、そこでの規範定立の理由づけは明らかに本件個別事情を離れた「一般論」として論じられているし、判決の採用した明白性等の基準(明白性等の3要件)も、その書きぶりは、他の出版継続のケースに対してもその事案内容によっては適用されうるような一般論として表現されているものと読むほかはない。
  実際、原判決後の新聞報道を見ても朝日新聞で「出版後の扱い  新基準」(平成20年11月1日朝刊1面)などと見出しにされるなど、名誉毀損の一場面において、新たな基準が定立されたとの受け止めが一般になされており、新たな明白性等の基準は、社会的にも影響が大きい。
 原判決に戻ると、判決書124頁においては、本件事案は「歴史の教科書に採り上げられるような歴史的事実に関わるもの」と指摘されたうえで、「このような歴史的事実の認定については…」などとして、かなりの程度抽象化された「歴史的事実に関する一般論」が展開され、それが規範定立や事実認定の正当性を補強する理由として述べられている。すなわち、本件事案に限らず、歴史的事実が問題とされる同種事件一般に通用する理論を原判決が提示しようとしていることは、この部分からも明らかである。

author:osj2, category:-, 04:07
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上告理由書 第1の3
 
3  原判決の定立した新基準の不当性と最高裁判例への違背等
(1)はじめに
  原判決の定立した新たな基準である「明白性等の基準」については、新基準定立の必要性自体の問題性、適用場面の曖昧さ、定立された3要件の不当なまでの厳格さ(名誉権保護の不十分さ)が、不当性として指摘できるので、以下詳述する。
 また、その中では、明白性等の基準への本件事情のあてはめにおける原判決の解釈が、名誉権の解釈についてのこれまでの最高裁判例の判断に明らかに相反する点が多数あることも併せて指摘する。そして、それらの原判決の解釈は、憲法13条に基づく名誉権の保護と憲法21条に基づく表現の自由の保護とを調整した各最高裁判例に違反しているという点で、憲法の解釈の誤りないし憲法の違反があるといえるものである。かかる憲法解釈の誤りないし憲法違反は判決に影響を及ぼすものでもあるため、上告人らは、それらの点も、前記2とは別に、上告理由として主張するものである。
(2)新基準を定立する必要性の不当について
ア  はじめに
   原判決は、本件については、真実性・真実相当性の法理ではなく、別の基準を用いて判断する必要があると考えていることは明らかであるが、そのような必要性を認める理由について論ずるところは、下記のとおり、全く説得的ではない。
    イ  言論出版の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由等は理由として不当
    原判決が、新基準定立を導く必要性に実質的に最初に触れているのは判決書117頁の「これを含む本件各書籍は、版を重ね世代を超えて読み継がれてきたものであり、その出版継続の禁止については、言論出版の自由、公共的事項に関する表現の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由というような重大な憲法上の法益との関係で、慎重な考慮を必要とする」という部分である。
    しかし、「言論出版の自由」及び「公共的事項に関する表現の自由」を新基準定立の理由とすることが、まず不当である。「言論出版の自由」及び「公共的事項に関する表現の自由」は、「版を重ね世代を超えて読み継がれてきた書籍」に限らず言論出版、表現全般において妥当するものであることは言うまでもないが、それらと、また別の重大な憲法上の法益である「名誉権」との微妙な調整の基準が、真実性・真実相当性の法理として結実しているのであり、「言論出版の自由」及び「公共的事項に関する表現の自由」を理由として調整の基準を変えるというのは、全く非論理的である。
    「歴史的事実探求にかかる思想信条の自由」をも慎重な考慮をなす必要性として挙げていることも、到底理解し難い。本件は「表現行為」を問題にしていることは改めて指摘するまでもないところ、別局面のテーマである「思想信条の自由」が持ち出される理由が全く不明である。被上告人大江健三郎(以下「被上告人大江」という)がその内心において、あるいはその思想として「無慈悲隊長直接命令」を信じることについては、彼の自由の領域に属するものであるから、上告人らとしても、それを全く問題視とするものではない。被上告人大江がその信じるところを、「無慈悲隊長直接命令」という「事実」として摘示し(その点については、原判決も、判決書129、130、253頁等で十分に認めているところである)、出版物に表現し流通させていることを違法と指摘しているだけである。
    なお、原判決が、「歴史的事実(探求)」の必要性を、新基準定立の理由としようとしている点への批判については、後述する。
   ウ  「著者に対する負担等と言論への萎縮効果への懸念」は理由として失当
  原判決は、明白性等の基準の規範定立の部分において、新基準を用いるべき必要性について詳論しているので分析する。
 判決書121頁においては、出版継続の特定の場面については真実性が揺らいでいても「直ちにそれだけで、当該記述を改めない限りそのままの形で当該書籍の出版を継続することが違法になると解することは相当でない」とし、その理由として、「,修Δ任覆韻譴弌著者は、過去の著作物についても常に新しい資料の出現に意を払い、記述の真実性について再考し続けなければならないということになるし、¬祥誠害を主張する者は新しい資料の出現毎に争いを蒸し返せることにもなる。C者に対する将来にわたるそのような負担は、結局は言論を萎縮させることにつながるおそれがある」(注:´↓は上告人ら代理人が付した)と判示された。
 しかし、まず,砲弔い討蓮△ような価値判断自体が大いに問題である。名誉毀損表現を含む出版を継続し、新たに文庫化ないし増刷して出庫・販売をする場合には、その事実摘示が新しい資料によって誤りであることが判明すれば、著者及び出版社は、直ちにその出版を停止するのは当然の責任であろう(原判決は「過去の著作物」と軽々しく表現するが、正確には「現在進行形で売られ続けている著作物」であるから、問題なのである)。本件のように、被上告人らの書籍出版が営利目的行為でもあること、一般人向けのスタンダードな内容のものとして文庫化されている歴史書(『太平洋戦争』)あるいはノーベル賞作家の作品の一つとしていまだに内容的にも信頼性や権威のあるものとして捉えられている評論(『沖縄ノート』)が問題となっていること、焦点となっている事実が「部隊長ないし軍の自決命令」という著名なテーマであって新資料についての情報に被上告人ら触れたり入手したりする機会は十二分にあること等からすれば、なおさらのはずである。
  原判決は、,療世砲弔い討蓮著者はある著作物の執筆が終了すれば別の著作活動に移るのであるから、過去の著作のテーマについての新資料の出現に気づく機会がないことも多いにもかかわらず、そのような新資料をチェックして事実を再検討し続けることを求めるのは酷というような価値判断をしているのかもしれない。しかし、そのような新資料に接する機会の有無の問題は、真実性・真実相当性の法理による判断においては、「真実性の喪失を認識しうべきであったか」という過失ないし真実相当性の点で評価され、「作家や出版社に課されるべき標準的な注意をもってすれば認識できるのにしなかった」という落ち度が著者や出版社になければ名誉毀損の不法行為の成立は否定されるのであるから、特段に新基準を定立してまで著者や出版社の表現の自由を厚く保護する必要性があるとはいえない。
  よってやはり、特定人に対する名誉毀損を内容とする出版をしつつ利益を得続けている以上、著者も出版社にも、「新しい資料の出現に意を払い、記述の真実性について再考し続ける」という責任が生じると解するべきなのである。実際、被上告人岩波書店は、文庫版になる前の旧版の『太平洋戦争』の出版においては、第2版で《赤松命令説》の記述を削除しており、上告人らが求めることは十分に現実的なのである。
 前記△砲弔い討癲価値判断が明らかに不当である。名誉毀損表現で被害を受け続けている者が、新たに発見された資料をもって「名誉毀損表現の摘示事実には、真実性も真実相当性もないのだ」と主張して汚名を雪ごうとするのは、当然の権利である。それを幾度行おうが同様である。また現実には、強大な出版メディアに対し、名誉毀損で社会的評価を傷つけられた被害者が、何度も名誉毀損表現の是正を求める場を作っていくことは、力の差からしても、労力やコスト負担の面からも非常に困難なことであって、かように非現実的な「新しい資料の出現毎の争いの蒸し返しの可能性」を新解釈の重要な論拠として語るのは、あまりにバランスを失している。
 このように、新資料をもって名誉毀損の是正を図ろうといる被害者の行為を、「蒸し返し」などと否定的に断ずる原審の人権感覚には首をかしげざるをえない。そのことは、例えば、再審無罪事件に関連する出版の例などを想定しても明白である。新たな証拠が見つかった等の理由で再審が開始され、その結果無罪判決が下された事件は少なくないが、その中には、逮捕や上告審での死刑判決から、30年以上もたって再審無罪がとされた免田事件のような例もある。新証拠により、犯罪の存在に合理的な疑いが生じた(すなわち「真実性が揺らいだ」)結果、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が再審において適用され、無罪とされたのである。そして、もし、「免田栄は殺人を行った」との内容の書籍が再審無罪の時期まで30年以上の長期間売られ続けていたとすれば、新証拠を根拠とした再審無罪判決という「新しい資料の出現」によって、免田は、当該書籍の出版の停止を求めることができると解するべきなのではないか。
 本件での、「自決命令を下し何十人、何百人という住民を死に追いやった部隊長」という汚名を雪ぎたいという梅澤の心情は、その例と比較しても切実さにおいて劣るものでは全くない。
 前記のように、原判決が「言論の萎縮効果への懸念」を理由とする点も、非現実的である。出版時点で真実相当性が認められる書籍について、それが将来的に、顱崢糠にわたって出版を継続されることとなり、その内容が歴史的事実にまでなる」が、髻屬修慮紊忙蠅辰匿兄駑舛砲茲蠅修瞭睛討凌深太が揺らぐ」という予想外の事態が生じ、ところが、鵝屬修里泙渊佝之兮海靴討靴泙辰董廖堯屬修慮總覆┐蕕譴襦廚箸いΔ茲Δ幣賁未房分(自社)が陥ったら大変だ、というような先々の極めて稀なケースまで想定して、表現者ないし出版社が考えて萎縮し、「出版はやめておこう」などと結論することなど、ありえないはずである。通常は、出版社や著者は、出版当時に真実相当性があれば出版自体には抑制的にはならない一方、その後新資料や新事実により記述に誤りが発見されれば(すなわち真実性も真実相当性もなくなれば)その時点で出版停止の措置をとれば大きな問題にはならないという考慮も働かせるのであって、真実性・真実相当性の法理をシンプルに適用するだけでも、原判決の指摘する「言論の萎縮」は生じないのである。すなわち、真実性・真実相当性の法理は、出版継続の場面でも、十分に表現の自由の保護の機能を果たすのであり、それだけ普遍的に有用な解釈なのである。
 ありえもしない「言論の萎縮」をもっともらしく「新基準定立の必要性」として掲げる原判決は、欺瞞に満ちているというほかはない。
   エ  「主張・批判・再批判の過程の保障の必要」も理由として失当
 原判決の判決書122頁においては、新たな明白性等の基準を定立する必要性として、前記の,覆い鍬に続き、「い泙拭特に公共の利害に深く関わる事柄については、本来、事実についてのその時点の資料に基づくある主張がなされ、それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ、更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして、その時代の大方の意見が形成され、さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されていくというような過程をたどるものであり、そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。テ辰法公務員に関する事実についてはその必要性が大きい。Δ修Δ世箸垢襪函仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものであるとはいえず、これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものといえる」(注:きキΔ肋綛霓佑藺緲人が付した)と論じられている。
 このさ擇哭イ療世砲弔い討蓮抽象的議論としては一応首肯できる内容ではある。しかし、このような議論において「公共の利害に深く関わる事柄」とか「公務員に関する事実」として想定されている事柄や事実は、主張・批判・再批判を経て内容が深まっていくような評価的要素を多分に含むテーマのはずである。原判決が「大方の意見が形成され」、また「その大方の意見自体が時代を超えて再批判されていく」というように「意見」と表現するのは、そのためであろう。このような議論が妥当するテーマとしては、例えば、「太平洋戦争敗戦の最大の責任者は誰か」というような、事実的要素はもちろん含むもののそれに加えて様々な立場からの評価や見解をもって結論が導かれるものが考えられる。あるいは、「日本国憲法の条文はどのような過程を経て形作られていったのか」というような、個別の事実の積み重ねの解明が重要と考えられるものでありながらも、極めて複雑かつ多数の事実、関係する組織や人物、それらの行動や思考、背景事情等々が織りなされて一つの事象が形成されたという事柄であるがゆえに、高度な知見からの分析や情報の取捨選択を加えて実相を確定する必要があるテーマもそうである。
 しかし、そのような趣旨は、本件の焦点である「戦時中の、時期的にも場所的にも限定された具体的場面で、梅澤、赤松大尉が自決命令(無慈悲隊長直接命令)を下したか」という極めて単純な事実問題には妥当しない。「評価としての軍命令」の有無というテーマならば一応妥当はするであろうが、それは本件訴訟の争点ではないことは、原判決も認めているところである。特定個人の犯罪行為の有無なども同様に、主張・批判・再批判の過程をずっと保護すべきとは考えられないテーマである。それらは、「あったかなかったかはっきりさせる」ことが当人にとっても社会にとっても重要なのであり、「主張・批判・再批判の過程を経て見識を深めたり、多様な意見を形成したりして、後世にその成果を伝えていくことに意義がある」というようなものではない。
  そのような単純問題についても、真実が判明するまでに主張・批判・再批判の過程があってよいことはもちろんであるが、資料の発見や新証言等により、特定個人の社会的評価を低下される事実が実は存在しないことが明らかになった場合には、判明したその結果を社会的に確定することが、本人の名誉にとって極めて重要であるとともに、社会全体からしても発見された真実が広く知らしめられるという大きな価値があるはずである。
  また、本件に即して言えば、「無慈悲直接隊長命令」の有無という争点については、今日までに主張・批判・再批判が繰り返され、資料や専門家の意見も出尽くしたといえる状況にある。その集大成が文科省の平成18年検定意見の内容なのであり(現に、甲B104の1頁に「とりわけ慎重かつ丁寧に調査審議を行ってきた」と述べられているところである)、この単純な事実問題について、さらに後世の再批判を待つべきという価値判断は働く余地はなく、むしろ通常の判断に基づき梅澤らの名誉等の保護が図られてしかるべきと思われるのである。
  さらに原判決の述べた前記Δ竜掴世癲⊂綉のような特定個人の名誉に関わる単純事実には全く妥当しない。例えば、「甲山事件において山田氏(元被告)は女子園児を殺害した」というような言論は、「後の資料からみて誤りとみなされる主張」であることは明らかであるが、それはやはり今となっては、「言論の場においては無価値なもの」と断じざるをえないし、「そのような誤りに対する寛容さこそが自由な言論の発展を保障する」ものとも到底言えない。
 当然過ぎることながら、「自由な言論な発展の保障」という原理で、個人の名誉の保護が後退し、「真実でないことが明らかになった名誉毀損表現を是正すること」がなされなくなってよいはずがないのである。むしろ、「真実性のない名誉毀損表現は是正する」という法のあり方が、公正かつ健全な言論市場とその発展を支える重要なシステムの一つになっているのであり、それが高度な知恵として結晶化しているのが真実性・真実相当性の法理なのである。
 原判決は、そのような、表現の自由と名誉権の保護を適切に調整しながら自由かつ公正な言論の発展を担保している真実性・真実相当性の法理の意義を真に理解することなくあるいはあえて無視して、独善的な思考により新解釈の必要性を無理に打ち出して明白性等の基準を定立したものであり、上告人ら敗訴の結論を導かんがためだけの立論を行っているのではないかと考えざるをえない。
(3)新基準の適用場面の曖昧
    ア  明白性等の基準の適用場面についての原判決の摘示
  原判決が新たに示した明白性等の基準の内容は、「/靴燭併駑租により当該記述の内容が真実でないことが明白になり、他方で、当該記述を含む書籍の発行により名誉等を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けているなどの事情があり、E該書籍をそのまま発行し続けることが、先のような観点や出版の自由などとの関係を考え合わせたとしても社会的な許容の限度を超えると判断されるような場合」(原判決121頁)と比較的明確に示されているが、この基準がいかなる場面で適用されるかという点については、新基準定立の必要性の理由づけの論述の中に紛れ込んだ形で述べられていて、やや分かりづらい。
 ただ精読すると、下記部分が、明白性等の基準の適用場面についての規範であることが見えてくる。
「本件のように、高度な公共の利害に関する事実に係り、かつ、もっぱら公益を図る目的で出版された書籍について、発行当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ、長年にわたって出版を継続してきたところ、新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだという場面にあっては、直ちにそれだけで、当該記述を改めない限りそのままの形で当該書籍の出版を継続することが違法になると解することは相当ではない」(原判決121頁)
 すなわち、適用場面の要件は下記の5点である。
 々眦戮文共の利害に関する事実に係り
  △發辰僂藐益を図る目的(で出版)
  H行当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ
 つ糠にわたって出版を継続してきた
 タ靴靴せ駑舛僚亳修砲茲蠅修凌深太等が揺らいだ
  原判決の考え方を仮に是とした場合でも、明白性等の基準が適用されるか、通常どおり真実性・真実相当性の法理が適用されるかは、結論を左右するほどの極めて重大な問題であることは言うまでもないが、上記の適用場面の要件は非常に曖昧で解釈とあてはめが容易ではない。また、その曖昧さにも由来するが、上記の要件に対する原判決のあてはめのあり方も恣意的で価値判断上問題が多い。それらの点を以下、詳述する。
  イ あてはめの困難性と価値判断上の問題
  (ア)「々眦戮文共の利害に関する事実」という要件について
  まず、「高度な公共の利害に関する事実」という要件のうちの「高度」という点が曖昧なことは否めない。
 原判決の書きぶりからすると、「公務員に関する事実」(原判決122頁)はひとつそれに予定されているようではある。しかし、それのみが基準でもないようであり、原判決が多用する「歴史的事実」(原判決116頁1行目、117頁下から8行目、124頁上から6行目及び10行目)というニュアンス、すなわち「かなり古い出来事であるが、社会的に見て重要な事実」という趣旨も込められているようにも思われるが、結論としてはよく分からない。例えば、個人の犯罪という事実は、該当するのであろうか。
  (イ)「つ糠にわたって出版を継続してきた」という要件について
  もっとも問題が多いのは、ぁ崢糠にわたって出版を継続してきた」という要件である。曖昧に過ぎて規範たりえないのである。
 素朴な疑問として、どの程度の年数だと「長年」とされるのであろうか。本件では、例えば『沖縄ノート』はいつころからこの要件を満たすこととなったのかということも判断しがたい。
  前記のとおり、原判決は、本件事案を指して「歴史的事実」であると繰り返し、そのようなケースの新基準として明白性等の基準を定立しているから、この「長年」という要件は、「歴史的事実」といえるほどの長期間を経ている状況を想定しているであろうことは間違いないであろうが、それでも基準といえるほど明確な線引きは見えてこない(ただ、判決書き124頁には、「歴史の教科書に採り上げられるような歴史的事実」というくだりがあり、「歴史の教科書に採り上げられる」というのが、「歴史的事実」の意義らしきものとも読めるが、かような定義づけは陳腐に過ぎるし基準とも言い難いから、教科書云々というのは歴史的事実性を表す一状況と解するのが妥当であろう)。例えば、昭和35年の日米安保条約締結は「歴史的事実」なのであろうか。ロッキード事件はどうであろうか。該当するか否かは、あてはめをする者の考え方次第なのではないか、と思わざるをえない。
 原判決を微に入り細に入り読み込めば、「本件各書籍は、版を重ね世代を超えて読み継がれてきた」(原判決117頁)との表現も見つけられるため、「世代を超えて」というのが「長年」の一つの意味合いともとりうる。しかし、それとて基準といえるほどの明確性はもたない。人間の世代はだいたい30年くらいで変わるから、「長年」とはその程度なのかとも思われる一方、当事者である梅澤や関係者(例えば、金城重明、知念朝睦、皆本義博ら)がまだ存命であることを考えると、集団自決と自決命令が「世代を超えて」完全に過去のものとなった古い事実と断ずるのは、通常の感覚からして違和感が大きい。
  それに深く関連するが、最大の疑問は、名誉毀損表現の対象となった本人がまだ生きていても、「長年」が経過した「歴史的事実」と評価されて、本当によいのかという点である。
 原判決はその点をためらいもなく肯定したが、そのような解釈、あてはめが妥当なものとは到底思われない。問題の事実に中心的に関与した当人が生きているのに、「歴史的事実」などとしてその事実を特殊な位置づけにしてしまってよいのか。何より、当人が生きている間は、少なくとも名誉回復の機会が普通の基準で与えられてしかるべきはないか。
 本件もまさしくそうであるが、名誉毀損表現の被害者が、さまざまな事情から、長期間、名誉回復の機会に恵まれないケースもある。言論や出版により名誉を著しく毀損されて社会的不利益を被ったり、心理的あるいは経済的な打撃を受けたりした一個人が、支援者にも恵まれず「速やかに訴訟等で争うことはできなかった」という事態に陥るのは、むしろ無理もないことなのである。
 新資料の出現や社会での捉えられ方の変化を受けて、被害者当人がようやく名誉毀損表現の是正を求めることができるようになったにもかかわらず、「長年にわたって出版を継続してきた」とか「歴史的事実」といったような曖昧な括りの中に、重大な名誉毀損事件の問題性を強引に押し込めて、救済の機会を著しく狭めてしまう(後に述べるが、要件の厳しさから言うと、事実上救済の道を閉ざしていると言っても過言ではない)ような原判決の示した取り扱いが、真に正義に適うものなのであろうか。
(4)新基準の3要件の不当な厳格性と名誉権に関する解釈の誤り
    ア  はじめに
  原判決が新たに示した明白性等の基準の内容は、「/靴燭併駑租により当該記述の内容が真実でないことが明白になり、他方で、当該記述を含む書籍の発行により名誉等を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けているなどの事情があり、E該書籍をそのまま発行し続けることが、先のような観点や出版の自由などとの関係を考え合わせたとしても社会的な許容の限度を超えると判断されるような場合」(原判決121頁)の出版継続が、名誉毀損の不法行為となるというものである。
 以下、,陵弖錣髻嵬税鮴」、△陵弖錣髻崕殿臧塒益」、の要件を「社会的非許容性」と呼ぶこととする。
 なお、の要件中に「先のような観点」と表現されている点は、必ずしも指示内容がはっきりしないが、規範定立の理由付け中に指摘された、著者に対する負担と言論への萎縮効果への懸念、主張・批判・再批判の過程の保障の必要、を差すもののように思われる。
 この3要件については、意義の不明確さ、名誉権の保護の観点からみたときの不当なまでの厳格性、要件の解釈やあてはめにおける名誉権に関する解釈の誤りや最高裁判例違背が原判決の判示にみられること等の問題点が以下のとおり指摘できる。
  イ 明白性の要件について
  (ア)二重の加重の不当性
  ,量税鮴の要件は、「記述の内容が真実でないこと」という点の立証責任を請求者側に課しているという点で、真実性・真実相当性の法理から立証責任の転換を図った要件である。
 さらに、真実でないことが「明白になった」と表現されていることからして、非真実性の立証を要する程度をさらに加重しているものと思われる(「明白になり」とは、単に「明らかになった」という意味のみにも解釈できるが、「明らかになり」とか「判明し」等の表現を用いず、わざわざ「明白」としていることからして、立証の度合いの加重の趣旨が含むものと解するのが相当であろう)。
 すなわち、この明白性の要件は、真実性・真実相当性の法理の真実性立証と比較して、立証責任の転換の点と立証程度の加重という点で、請求者側からすると二重の加重ということとなる。
  このような重い要件は、請求者にとって極めて苛酷な負担増であり、到底妥当なものとは思われない。前記のような「長年にわたって出版を継続してきた」あるいは「歴史的事実となった」という曖昧な基準をひとたび満たすとして明白性等の基準の適用場面とされてしまうと、名誉毀損の不法行為の成否については、後記の⊇殿臧塒益及び社会的非許容性の両要件とも相まって、劇的な要件加重となる。極端すぎる解釈というほかはない。
  一定の社会的事実が、時が経ち関係者がこの世を去るなどして「歴史的事実」化していくことがあることは大雑把な感覚としては首肯できなくはないが、現実は、事象はゆっくりとゆっくりと「歴史的事実」化が進むものであって歴史的事実とみなされる時期については明確な境目などもない。また実際には、「歴史的事実」になったと思われたものが、新事実や新資料の発見により議論の対象となって「歴史的事実」以前の状態に戻るなど、ときに行きつ戻りつもするものなのではないのか。そのような、極めて曖昧な適用範囲に入るとされたとたんに著しい要件加重がなされるのは、不当と言わざるをえない。
  (イ)「現実の悪意の法理」と実質的に同一
  原判決が示した明白性等の基準は、実質的に、「現実の悪意の法理」と同じ内容を有する。
 現実の悪意の法理は、「公務員に対する名誉毀損表現については、その表現が『現実の悪意』をもって、つまり、それが虚偽であることを知っていながらなされたものか、または虚偽か否かを気にもかけずに無視してなされたものか、それを原告(公務員)が立証しなければならない」とするものである。
 訴訟場面においては、主観的な加害意思や不認識についての重大な過失を内容とする「現実の悪意」を直接立証する資料があることはまずないから、請求者(原告)側は、「事実が真実でないことの明白性」を立証することとなる。
 したがって立証責任や立証の対象の点で、実質的に、「現実の悪意の法理」は原判決の明白性等の基準(特に、明白性の要件部分)と同一なのである。さらにいえば、「公務員に対する名誉毀損」という現実の悪意の法理の適用場面も、明白性等の基準の「高度な公共の利害に関する事実に係り」という適用場面についての規範と共通である。
 しかし、現在まで最高裁判所が現実の悪意の法理を一貫して採用していないことは周知のとおりである(甲C13・1168、1171、1173頁等)。
  その意味で限定的場面とはいえ、原判決が、現実の悪意の法理と類似の明白性等の基準を採用するのは、正当ではない(実際には、後記の重大不利益と社会的非許容性という要件まで加重されているので、明白性等の基準は、現実の悪意の法理よりも、さらに個人の名誉の保護を疎んじ表現の自由を過大に保障する内実をもっている)。
   ウ 重大不利益の要件について
  (ア)「読まれ方変遷論」の採用は不当
       a 原判決が重視した「読まれ方の変化」
 原判決は、272頁から274頁の説示において、『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』(以下「本件各書籍」という)の集団自決に関する記述の「読まれ方」も変化していると指摘し、その「読まれ方の変化」は、明白性等の基準の第2の要件である重大不利益の部分で取り上げるのが相当としている。
 すなわち、原判決は「沖縄戦の研究者はもとより一般読者の理解も、現在においては、多くは集団自決の問題は特定の隊長のその場における直接命令の有無などにあるのではないとの認識にたち、本件各記述から集団自決をある特定の個人の責任のように理解しその個人を非難するのはむしろ誤りであると捉えられてきていると思われる」(272頁)などと指摘したうえで、重大不利益の要件あてはめにおいては、「仮に隊長命令が個人名を伴って摘示されていても、それ自体がその個人を非難の対象としているものと受け止められるおそれは低くなっている」(274頁)などと認定するとともに、「このような長い時の経過による状況の変化により、本件各記述によって、控訴人らの社会的な評価としての名誉が侵害される具体的な可能性は、一般的に見ても大幅に低下しているものと認められる」(274頁)と述べ、それを重大な不利益はないとの結論付けの中心的な論拠としている。
  しかし、上記のような原判決の判断は、名誉権という人格権についての解釈を大きく誤っており、過去最高裁判決の示してきた名誉権に関する一貫した考え方にも相反するものである。以下、詳論する。
       b 昭和31年判決、平成15年判決への違背
 ある記述の名誉毀損性の有無は、「当該記述がどう読まれるのか」という「読まれ方」によって判断されるべきことは当然であるが、その点については、最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決(昭和29年(オ)第634号・民集10巻8号1059頁)が「新聞記事の内容が事実に反し名誉を毀損すべき意味のものかどうかは、一般読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきである」と判示しており(以下「昭和31年判決」という)、放送メディアの表現についても同様に、「テレビジョン放送された報道番組の内容が人の社会的評価を低下させるか否かについては、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準として判断すべき」と判示した最高裁平成15年10月16日第一小法廷判決がある(平成14年(受)第846号・民集57巻9号1075頁。以下「平成15年判決」という)。
 すなわち、一般人の普通の注意と読み方を基準として当該表現の名誉毀損性が判断されるのであって、「そのテーマについて一般人以上の知識を有する者の注意と読み方」や「専門家、研究家の注意と読み方」は基準とされないのである。
  この点、原判決は、「沖縄戦の研究者はもとより一般読者の理解も、現在においては、多くは集団自決の問題は特定の隊長のその場における直接命令の有無などにあるのではないとの認識にたち、本件各記述から集団自決をある特定の個人の責任のように理解しその個人を非難するのはむしろ誤りであると捉えられてきている」(272頁)と判示し、研究者だけでなく、一般読者も、その多くは、本件各記述を読んでも梅澤ないし赤松大尉の個人の責任とは捉えないとの認定をしている。
 しかし、そのような認定は明らかに、実態にも、そして経験則や条理に大きく反する。「無慈悲直接隊長命令」や「隊長個人の責任」というのは誤りで「評価としての軍命令」が真の争点であるなどとの認識は、沖縄戦と集団自決について相当程度積極的な学習や意識的な情報収集をした人々が有するに至っているだけであり、「一般読者」が共有しているとは到底言えない。確かにマスコミが「無慈悲直接隊長命令」を無批判に報道することはほぼなくなったが、「隊長個人の責任は否定できない」などとして梅澤や赤松大尉に個人的な非難や否定的評価をなす表現は、沖縄の言論その他において未だ枚挙にいとまがない。さらに一般人の認識となると、十分な知識もないまま「無慈悲直接隊長命令」があったらしいと漠然と思っている者も多いし、さらに実態を述べれば、集団自決問題についてほとんど知識がない者が一般人の大多数であろう。そのような一般読者が普通の注意と読み方をもって、権威ある出版社である被上告人岩波書店の『太平洋戦争』を読めば、梅澤個人が直接的に自決命令を出したと受け取るのは当然である。同じく一般読者が普通の注意と読み方をもって、著名作家被上告人大江の『沖縄ノート』を読めば、座間味島、渡嘉敷島では軍隊から住民に対し自決命令を出したという事実があり、その命令を出した責任者個人が非難されるべき存在であると理解するのも必定である(その中で書かれた「責任者」あるいは「守備隊長」が、梅澤ないし赤松大尉であると特定、同定できることは、原判決も肯定したところである。原判決126頁ないし128頁)。
 そのような当然想定されるべき「一般読者の注意と読み方」を原判決は考慮せず、一般読者の多くも本件各記述を読んでも梅澤ないし赤松大尉の個人の責任とは捉えないとの、明らかに経験則や条理に反した認定をしている。原判決は、実質的に、「沖縄戦の研究者」の読み方あるいは「集団自決問題について十分な知識を有する者」の読み方を持ち出して、名誉毀損性を解釈しているのである。
 これは、前記の昭和31年判決に違背するとともに、憲法13条に基づく名誉権についての解釈を誤るもので、憲法に違反するものである。
  さらに、以上とほぼ内容的に重なることであるが、平成15年判決には、「テレビジョン放送された報道番組により摘示された事実がどのようなものであるかは、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準とし、当該番組の全体的な構成、登場者の発言内容、画面に表示されたフリップやテロップ等の文字情報等を重視すべきはもとより、映像の内容、効果音、ナレーション等の映像、音声に係る情報の内容ならびに放送内容全体から受ける印象等を総合的に考慮して、判断すべきである」というような説示もされており、その部分の判断にも、原判決の前記認定は抵触する。
 すなわち、この判示から重要なのは、「当該番組」から得られる情報、印象から、摘示事実を確定、認定すべきとしている点であり、「当該番組」外の、社会に流通する関係情報も参考にして、摘示事実を確定、認定することは想定されていないということである。本件に即して言えば、『太平洋戦争』、『沖縄ノート』の記載の範囲外の関係情報から、摘示事実を確定、認定してはならないということである。
 ところが原判決は、『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』の記載の範囲外の情報である「集団自決を巡る、多くの資料や研究成果、昨今の社会での議論状況」をも読み手が考え合わせれば、字面からは「無慈悲直接隊長命令」としか読みようのない記述についても「評価としての軍命令」の事実摘示であるという「読まれ方」が今ではされるのだ、などと論ずるものであり、上記平成15年判決の趣旨に相反することは明らかである。
       c 平成9年9月9日判決への違背等
 「読まれ方の変化」については、原判決は、「本件各記述の摘示の内容や論評の前提となった事実は、前述の区分でいえば、むしろ、評価としての軍命令であり、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長であるともいえるのである」(272頁)と説示しつつ、「『評価たる軍命令』の有無はまさに評価である」(273頁)とも述べており、それらの記述からすると、原判決の考え方には、「本件各記述は今となっては一つの評価、意見、論評であると受け取ることができる。だから許容されるべき」との実質的考慮があるように思われる。
 原判決が重大不利益の要件のあてはめにおいて用いた「読まれ方の変化」に、かような「今となっては意見論評という読まれ方をする」という趣旨が含意されているのであれば、その点は、名誉毀損の成否が問題となっている新聞記事における事実の摘示と意見ないし論評の表明との区別についての判断を示した最高裁平成9年9月9日第三小法廷判決の判断にも相反する(平成6年(オ)第978号・民集51巻8号3804頁。以下「平成9年9月9日判決」という)。
 すなわち、同判決は、「ある記事の意味内容が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは、当該記事についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきであり(最高裁昭和二九年(オ)第六三四号同三一年七月二〇日第二小法廷判決・民集一〇巻八号一〇五九頁参照)、そのことは、前記区別に当たっても妥当するものというべきである。すなわち、新聞記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分について、そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合には、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せないときにも、当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である」と判示している。
 同判決の基準をもって、『沖縄ノート』の問題の記述を検討すれば、それは意見論評に尽きるものでは到底なく、《梅澤命令説》の事実の摘示が含まれることは、原審の控訴人準備書面(1)13頁以下、一審の原告最終準備書面(その1)13頁以下で上告人らが詳論したとおりである。その点は、何より原判決自体が認めているところではないか(129、130頁)。
 『太平洋戦争』の梅澤に関する事実の摘示の内容が「評価としての軍命令であり、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長であるともいえる」などと原判決が述べることは信じがたいところである。「座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った」という『太平洋戦争』の記述を、一般の読者がどう読めば「評価としての軍命令の記述である」と理解することができるのであろうか。経験則や条理に著しく反する不相当な認定であるというほかはない。
 同様に『沖縄ノート』においても、梅澤に関しては、「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている」、「この個人の行動の全体」等、個人の行為に関する具体的表現と、それを前提とした梅澤個人への非難が書かれており(「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」等)、それらの記述は、一般の読者がどう読んでも「評価としての軍命令の記述である」と理解することは不可能であるが、原判決はそれを可能としており、その点もやはり経験則や条理に著しく反する不相当な認定である。
       d 平成9年5月27日夕刊フジ事件判決への違背等
 「読まれ方の変化」を名誉権侵害の判断の要素とすることは、名誉毀損表現の媒体の性格は考慮しないという最高裁平成9年5月27日第三小法廷判決(平成5年(オ)第1038号・民集51巻5号2009頁、判例タイムズ942号109頁。夕刊フジ事件。以下「平成9年5月27日夕刊フジ事件判決」という)にも反する。
 すなわち同判決は、夕刊フジに掲載された名誉毀損記事について、「新聞記事による名誉毀損にあっては、他人の社会的評価を低下させる内容の記事を掲載した新聞が発行され、当該記事の対象とされた者がその記事内容に従って評価を受ける危険性が生ずることによって、不法行為が成立するのであって、当該新聞の編集方針、その主な読者の構成及びこれらに基づく当該新聞の性質についての社会の一般的な評価は、右不法行為責任の成否を左右するものではないというべきである」、そして「たとい、当該新聞が主に興味本位の内容の記事を掲載することを編集の方針とし、読者層もその編集方針に対応するものであったとしても、当該新聞が報道媒体としての性格を有している以上は、その読者も当該新聞に掲載される記事がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、当該記事に幾分かの真実も含まれているものと考えるのが通常であろうから、その掲載記事により記事の対象とされた者の社会的評価が低下させられる危険性が生ずることを否定することはできないからである」と判示した。
 ところが、原判決は、『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』の出版が資料の限られた古い時期のものであること、そして出版後現在までに集団自決問題に関する社会的な認識の深まりがあることから、「本件各記述を時代的に限られた資料に基づくものとして批判的に評価検討できる状況が生まれている」(原判決274頁)などと述べ、それゆえ、梅澤らの名誉が侵害される具体的な可能性は一般的に見ても大幅に低下していると断ずる。すなわち、平易に述べれば「情報が少なかった時代の古い書籍だと分かってみんな読むのだから、字面どおりには受け取らない」という趣旨であるが、これはまさしく、名誉毀損表現の媒体の性格を正面から考慮に入れているがゆえの評価であり、そのような評価を前提に梅澤の名誉権の侵害について解釈するのは、平成9年5月27日夕刊フジ事件判決の判断に明らかに相反していると解される。
 本件について、同判決の判示に即して述べれば、『太平洋戦争』が歴史解説書としての性格を有し、『沖縄ノート』が沖縄戦や沖縄そのものについての事実を基礎にした評論書としての性格を有している以上は、その読者も当該歴史書ないし評論の中で摘示される事実がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、当該事実に幾分かの真実も含まれているものと考えるのが通常であろうから、その事実摘示により記述の対象とされた梅澤らの社会的評価が低下させられる危険性が生ずることを否定することはできない、ということなのである。
    (イ)名誉の意義あるいは名誉権侵害における結果の捉え方の誤り及び最高裁判例違背
    a はじめに
  原判決は、重大不利益の要件のあてはめにおいて、「このような長い時の経過による状況の変化により、本件各記述によって、控訴人らの社会的な評価としての名誉が侵害される具体的な可能性は、一般的に見ても大幅に低下しているものと認められる」(274頁)などと述べて、重大不利益はなかったと結論づけている。
 要するに、「本件各記述によって社会的評価が下がる現実的危険はない、実際にも社会的評価は下がっていない」、「本人らは、もはやさほど心情的に傷ついていない」というのである。
 これらの評価自体が到底容認できないことは後述するが、上記の判断には、そもそも、名誉権侵害の結果については本来抽象的危険で足りるところを具体的危険あるいは現実の社会的評価の低下を要求しているといった誤った解釈があり、また、社会的評価としての名誉と名誉感情の混同もあり、名誉権に関する基本的解釈の誤りを多分に含んでいると言わざるをえない。
        b 名誉感情との混同
 名誉の定義については、最高裁昭和45年12月18日第二小法廷判決(昭和43年(オ)第1357号・民集24巻13号2151頁)が「民法七二三条にいう名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉を指すものであつて、人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価、すなわち名誉感情は含まないものと解すべきである」と判示し、最高裁昭和61年6月11日大法廷判決(昭和56年(オ)第609号・民集40巻4号872頁。北方ジャーナル事件)も、「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉」としている。
 すなわち、人格権としての名誉権の意義は、要するに社会的評価であって、当人の主観的な名誉感情ではないのである。
 また、名誉権侵害についての被害者の認識の位置づけについては、最高裁平成9年5月27日第三小法廷判決(平成8年(オ)第220号・民集51巻5号2024頁。ロス疑惑スポーツニッポン新聞事件。以下「平成9年5月27日ロス疑惑スポーツニッポン新聞事件判決」という)が、「不法行為の被侵害利益としての名誉(民法七一〇条、七二三条)とは、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価のことであり(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)、名誉毀損とは、この客観的な社会的評価を低下させる行為のことにほかならない。新聞記事による名誉毀損にあっては、これを掲載した新聞が発行され、読者がこれを閲読し得る状態になった時点で、右記事により事実を摘示された人の客観的な社会的評価が低下するのであるから、その人が当該記事の掲載を知ったかどうかにかかわらず、名誉毀損による損害はその時点で発生していることになる。被害者が損害を知ったことは、不法行為による損害賠償請求権の消滅時効の起算点(同法七二四条)としての意味を有するにすぎないのである」と判示している。
 すなわち、名誉毀損被害者が当該表現の発表を知ったかどうかにかかわらず、名誉毀損による損害はその時点で発生しているというのである。
  ところが、原判決は、「名誉等を害された」という梅澤や上告人赤松秀一(以下「赤松秀一」という)の認識や主観的な被害感情の甚だしさを、名誉権侵害の結果の認定の中で要求しており、その点大きな誤りがある。
        c 名誉権侵害の結果の捉え方の誤り
  刑法の名誉毀損罪(230条)の罪質については、「本条の罪は、公然人の社会的地位を貶するに足るべき具体的事実を摘示して名誉低下の危険状態を発生させることで既遂に達するから、右のような事実を記載した新聞紙を配布すれば既遂であり、被害者が社会的名誉を傷つけられた事実までは必要としない」とする大審院昭和13年2月28日判決(昭和12年(れ)第2403号・大審院刑事判例集17巻141頁)があり、この解釈が現在も判例通説である。
  刑法学的に表現すると、「名誉権侵害の結果」の捉え方については、抽象的危険説で考えるということであるが、名誉権の性質については、真実性・真実相当性の法理が刑法の名誉毀損罪の解釈にも用いられていることからも明らかなように、刑法上の解釈と、憲法上の人格権(13条)としての名誉権及び民法709条(民法710条及び723条含む)等における名誉の解釈は共通するものであり、本件のように民事上の名誉権侵害が問題とされる場合でも、「名誉権侵害の結果」は抽象的危険で足りると解するのが相当である。
  この点は、平成9年5月27日夕刊フジ事件判決が「新聞記事による名誉毀損にあっては、他人の社会的評価を低下させる内容の記事を掲載した新聞が発行され、当該記事の対象とされた者がその記事内容に従って評価を受ける危険性が生ずることによって、不法行為が成立する」と判示し、平成9年5月27日ロス疑惑スポーツニッポン新聞事件判決も「新聞記事による名誉毀損にあっては、これを掲載した新聞が発行され、読者がこれを閲読し得る状態になった時点で、右記事により事実を摘示された人の客観的な社会的評価が低下するのであるから、その人が当該記事の掲載を知ったかどうかにかかわらず、名誉毀損による損害はその時点で発生していることになる」ことで最高裁判例上も確認されている。
 ところが、前記のとおり原判決は、「本件各記述によって、控訴人らの社会的な評価としての名誉が侵害される具体的な可能性は、一般的に見ても大幅に低下している」など判示して、名誉権侵害の結果について具体的危険ないしは現実の社会的評価の低下を要求するかのような解釈を示しており、その点に大きな誤り及び最高裁判例違反がある。
    (ウ)重大不利益の要件についての補足
        a 法体系の統一性を害する解釈
 以上のように、重大不利益の要件のあてはめの中で、原判決が示した名誉権及びその侵害に関する考え方は、最高裁が前記諸判例の中で確立していた名誉権に関する統一的な解釈と明らかに相反するものであり、失当である。
  原審としては、この重大不利益の点は、原審が新たに独自に定立した明白性等の基準の一要件であって、同基準の要件についてはそれぞれ、原審が考えるオリジナルの意義付けないし解釈をもってその内容を決めているのであるから、その内容やあてはめ方は過去の最高裁判例の解釈に縛られるものではないと考えるのかもしれない。
 しかし、独自の新基準とはいえ、あくまでも「名誉権とその侵害」に関する解釈を行っているのであり、名誉権についての法体系及び最高裁判例の基本的考え方との整合性がなければ、不当であり違法との評価を免れないはずである。
 その意味で、原判決の判断は、法体系の統一性を害する極めて独善的な解釈であると言わざるをえない。
 重大性の要件を非常に平たく言えば、「今現在めちゃくちゃかわいそうな場合でなければ助けてやらない」というものであるが、いったい何を根拠にかように恣意的なルールの定立が許されるのであろうか。その根拠が極めて薄弱であることは、前記(2)に述べたとおりである。
        b 不利益性の認定の不当
  原判決の重大不利益の要件へのあてはめ自体も著しく一方的である。
  原判決は、厳しいとはいえ客観的に定めた明白性等の基準の3要件をクリアすれば、出版継続のケースでも請求者側が救済される場合もあるかのような書き方を一見しているが、重大不利益の要件へのあてはめのあり方を見てみると、どんなケースでもすべからく、「『長年』不名誉に耐えてきた者なのだから、今現在は、耐え難いような『重大な不利益』はない」として要件充足せずとの結論になるのではないかと疑わざるをえない。
 原判決は、「本件各記述は、控訴人梅澤本人にとっては、個人の名誉に関するかぎり、放置しておけば足りる程度の違法性しか有さないものと判断されていたと認められる」(276頁)と、ひどく冷酷な認定をしているが、自分が住民多数に無慈悲にも自決を命じたなどと歴史書や評論等に書かれて売られ続け、それが後世にも残っていくことについて、放置すれば足りるなどと心底から受け止める人間がいようか。梅澤は名誉を重んじる元軍人であり、「自決命令を出した」という不名誉な濡れ衣に非常な苦痛が今もないはずがなく、生きているうちに何とか濡れ衣を晴らし、自身が残忍卑怯な部隊長ではなかったと社会に正面から認めてもらいたいと切望している。
  原判決は、「著者らの立場からすると、−中略− その内容を新しい資料に基づいて再検討するなどの機会もなかった」(280頁)などとも述べるが、係争中の被上告人らの姿勢からして、事前に上告人らが苦情と記述訂正の要求をしたとしても、それに応じたはずがない。また何より、少なくとも提訴自体が、「新しい資料に基づいて再検討するなどの機会」に十二分になっているにもかかわらず、現在まで被上告人らは『沖縄ノート』を増刷しつづけ、『太平洋戦争』も出庫停止にすることなく売り続けている(『太平洋戦争』は現在第4刷が、被上告人岩波書店のホームページ等から入手できる)。
c 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対して
 原判決は、重大不利益のあてはめの最後の部分において「著者らの立場からすると、当時の通説に基づくものとして初めは真実性が問題とされることもなかった本件各記述について、その内容を新しい資料に基づいて再検討する機会もなかったものといわざるを得ず、控訴人らからはこれに関する故意過失についての具体的な主張もない」(280頁)などと説示する。
 しかし、この記述からは、故意過失の対象が不明瞭である。何故に、何に対して、故意過失が必要との趣旨であろうか。素直に読めば、「本件各記述の真実性を新しい資料に基づいて再検討する機会」についての故意過失と解されるから、要するに、出版継続にあたっての、名誉毀損の不法行為性に関する被上告人らの故意過失、すなわち、真実性喪失の認識あるいは認識可能性ということのようである。
 その要件ないし要素がなぜ、明白性等の基準の重大不利益の要件の中で突然あてはめがされるのかも全く不可解であるが(それ自体、明白性等の基準の理論的な混乱、脆弱さを示すものであろう)、それはひとまず措いても、名誉毀損の不法行為性に関する被上告人らの故意過失、すなわち、真実性喪失の認識あるいは認識可能性という点については、一審、控訴審を通じて、上告人らは縷々主張立証してきたのであり、原判決がその点を理解していないことに、上告人らは大きな戸惑いを禁じ得ない。
 《梅澤命令説》について言えば、昭和60年ないし平成元年ころに《梅澤命令説》を否定する報道や出版が相次いだ時期、あるいは少なくとも『母の遺したもの』が出版された時点、またはどんなに遅くともそれが沖縄タイムス出版文化賞を受賞した時点で、被上告人らは梅澤による隊長命令の記述が真実性等を喪失したことについて十分に認識しまたは認識可能であったのだから、そのときに真実相当性が喪失し被上告人らに故意過失が優に認められるとの趣旨の主張立証も、延々としてきたところである。
 そして、さらに重要なことは、それらの主張に対しては、被上告人らは、「通常の注意をしていたが、そのような新資料に接する機会はなかった」などという形で否認はしておらず、その点は、一審、控訴審を通じて実質的に争点にすらなっていなかったのである。にもかかわらず、突如、故意過失の具体的主張がないなどと原判決が不意打ち的に断じたことは到底承服できない。
 釈迦に説法となるが、改めて昭和41年判決に立ち戻って確認すると、同判決は、「もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく結局、不法行為は成立しない」と述べており、要するに「真実相当性があると、行為に故意過失は認められない」としているのである(刑法解釈に引き寄せて述べると、ここでの故意過失は、違法性の認識及び認識可能性という意味であり、いわゆる責任論の次元での故意過失であろう)。すなわち真実相当性イコール故意過失であるから、本件訴訟上、上告人らが真実相当性を主張立証しているということは、同時に被上告人らの故意過失の主張立証をなしていることにほかならない。にもかかわらず、上告人らに故意過失の主張がないなどと断じた原判決を見ると、昭和41年判決の正確な理解が原審にあったのかさえも、疑問に思えてならない。
 あるいは、原判決は、また上記とは別の意味で、明白性等の基準の中で求められる独自の「故意過失」の必要を述べようとしているのであろうか。だとすれば、原審はより具体的にその内容を示し、主張立証の機会を上告人らに与えていない以上、原判決は、不意打ちの内容を含む審理不尽の判決との謗りを免れないはずである。突然に定立された新たな「明白性等の基準」の中で求められる主張立証の要点は、上告人らには予め認識不可能であった。
    d 提訴の目的の評価について
 原判決は、重大不利益の要件へのあてはめにおいて、梅澤及び赤松秀一の提訴の動機、目的が、「単に個人の名誉侵害にとどまらず」、「歴史教科書(平成17年度検定)等の公の書物に、集団自決が日本軍の命令により強制されたかのごとく記載されているのを放置できないという点」、「集団自決の歴史を正しく伝えていくこと」(5頁。279頁も同旨)にもあることをもって、「無理がある」などとして、重大不利益性を否定する一理由としている。
 しかし、かように提訴の動機や目的を重視する解釈も失当である。個人の権利救済を訴訟上求めることが、同時に、それを超えたより大きな社会的課題への問題提起であったり、世の中の認識や制度の変革につなげようという目的や願望をも併有したりすることは、特段に珍しいことではない。本件で上告人らが、「集団自決の歴史を正しく伝えていく目的」に言及したのは、集団自決問題に深く関わった者の一人としてのそのような希望や使命感を表現したことに過ぎず、個人の権利回復の切実さは、かかる希望や使命感と何ら矛盾するものではない。
 重大問題に関する提訴という社会的行動に付随する主観的な「気持ち」のあり方をもって、社会から受ける客観的評価たる名誉の違法な侵害がないと結論づけるための一つの理由とする原判決には、深刻な論理矛盾がある。
  エ 社会的非許容性の要件について
  次いで、明白性等の基準の第3の要件である、「当該書籍をそのまま発行し続けることが、先のような観点や出版の自由などとの関係を考え合わせたとしても社会的な許容の限度を超える」(原判決121頁)という社会的非許容性の点について検討する。
  まず、「先のような観点」(著者に対する負担と言論への萎縮効果への懸念、主張・批判・再批判の過程の保障の必要のことのように思われる)や「出版の自由」などとの関係を考え合わせたうえでも「社会的な許容の限度を超える」というのは、この上なく抽象的で、基準として不適当なのではないかとの強い疑問が指摘できる。
 また、「社会的な許容の限度を超える」という点においては、「社会的に出版を止めるべきという一定のコンセンサス」のようなものが要求されているのかとも思われるが、仮にそうであれば、著しく失当である。本件のような、思想性や国家観、歴史観等もあいまって果てしない論議を呼ぶような問題については、容易に社会的にコンセンサスはできない。社会的な共通認識ができていないと救済対象としないというのは、歴史観等も絡むゆえに論議を呼ぶ問題について社会にコンセンサスを作る力のない弱者である名誉毀損被害者の名誉回復の機会を実質上閉ざすものである。そのような姿勢は、「司法も多数者の見解に従う」ということにほかならず、個人の権利救済を任務とするはずの裁判所の職責放棄ではないか。
  一般的な民事上の不法行為等の解釈において、「社会的相当性」が基準になることは多いが、そこで基準とされているのは、社会で概ね共有できている一般的な「価値判断のあり方」、「価値観」、「常識」のようなものである。それに対し、「無慈悲直接隊長命令があったか否か」というような特定事実の有無とか、「無慈悲直接隊長命令があったと書いてある書籍を売り続けることが相当か」というような個別具体的問題についての当不当の判断について、「社会的な許容(の有無)」すなわち「社会で概ね共有できる認識」を要求することが、どだい非常識なものと言わざるをえない。
(5)歴史的事実論の不当性
ア 原判決の論及する歴史的事実論
  原判決の判断の中核は、本件の争点を「歴史的事実」の問題と解し、特殊な議論に持ち込んだ点にある。原判決が述べる「歴史的事実論」は、下記のようなものである。
「このような歴史的事実の認定については、多くの文献、史料の検討評価が重要な要素とならざるを得ず、また、その当時の社会組織や国民教育、時代の風潮、庶民一般の思考や価値観、日本軍の組織や行動規範など多くの社会的な背景事情を基礎として、多様な史料を多角的に比較、分析、評価して、事実を解明してゆくことが必要となる。それらは、本来歴史研究の課題であって、多くの専門家によるそれぞれの歴史認識に基づく様々な見解が学問の場において論議され、研究され蓄積されて言論の場に提供されていくべきものである。司法にこれを求め、仮にも『有権的な』判断を期待するとすれば、いささか、場違いなことであるといわざるを得ない。」(124頁)
 上記の説示は、明白性等の基準の規範定立の記述(122頁まで)の後に「本件で問題となっているのは…」として補足的に語られているところであり、判決理由における必要性、位置づけがよく分からないところであるが、わざわざ付言して強調していることからして、原判決の問題認識や価値判断がもっとも端的に現れている部分であると思われる。内容的には、明白性等の基準定立の必要性の理由とされた「主張・批判・再批判の過程の保障の必要性」(122頁2行目ないし12行目)を、さらに本件事件の争点に敷衍して述べたものとも評価できよう。
イ 歴史的事実論の欺瞞
 原判決の述べた上記の歴史的事実論には、下記のような深刻な疑問が拭えない。
 ,泙此◆嵶鮖謀事実」の定義、範囲が極めて曖昧である。何をもって、特定の事実を「歴史的事実」と捉えるのか(前記(3)イ(イ)「長年にわたって出版を継続してきた」という適用範囲に関する要件についての批判と同旨。また、前記(4)イ(ア)において、同主旨を指摘してところである)。
◆,泙拭⇔磴┐弌◆崑席人寮鐐菁埓錣虜蚤腓寮嫻ぜ圓話か」とか「日本国憲法の条文はどのような過程を経て形作られていったのか」等の、評価的要素が入る問題や、膨大かつ複雑な事実情報を総合して実相を確定すべき問題については、上記の歴史的事実論が妥当することは了解できるが、「梅澤個人ないし赤松大尉個人が米軍上陸の前後に住民に対する無慈悲直接自決命令という残虐な行為を行った」という事実は、個々人の、明瞭に特定された一つの行為の有無という単純な事実問題であり、それを「歴史的事実」として括るのはいかにも乱暴に過ぎる(前記(2)ウ「主張・批判・再批判の過程の保障の必要性」が新基準定立の理由とされる点への批判と同旨)。
 「かなり昔に起こった事件、事象」あるいは「古い事実」は無数にあるが、上記のような歴史的事実論が妥当するものか否かは、きめ細かい仕分けが必要なはずである。あるいは、前記のような単純問題も「歴史的事実」の範疇に入れて考えるとしても、個人の権利に関わる事柄については慎重な取り扱い、すなわち、通常の法的基準による救済が当然必要なのではないか。
 さらに本質的指摘をすれば、原判決の立論は「歴史的事実」をマジックワードのようにして、本件訴訟の争点を論評の世界の議論にすり替えたものであるといえる。
  すなわち、原判決は、歴史研究の課題について裁判所に有権的な判断を仰ぐことは場違いなどと断じ(その背景には、政治的、思想的な対立が色濃い問題であるとの認識があるのであろう)、新基準を正当化する論拠の一つとして援用している。しかしその内実は、真実性の立証のない事実の摘示による、しかも住民の大量虐殺という内容の上告人らの社会的評価に対する重大な侵害を行う表現について、損害賠償や出版停止等を求めているというのが本件訴訟の実相であるにもかかわらず、原判決は、提訴の動機や「読み方の変化」、提訴後の教科書検定の推移という訴訟外で展開されている政治問題との関連を理由に、いわば「政治的論争の当否」が本質となっているかのような捉え方をしている。
 そのように摘示事実の真実性を問題にしている本件を、正当な理由もなく論評の当否を争うものであるかのように曲解している点で、事実言論と意見論評とを区別して表現の自由と名誉権の保護を調整してきた平成9年9月9日判決に違背していることは明らかである。
  前記の歴史的事実論の判示を見ても、無慈悲隊長直接命令の有無が本来本件訴訟の焦点のはずであるのに、原判決は「当時の社会組織や国民教育、時代の風潮、庶民一般の思考や価値観、日本軍の組織や行動規範など多くの社会的な背景事情を基礎として、多様な史料を多角的に比較、分析、評価して、事実を解明してゆくことが必要」などと述べている。これは、「『軍官民共生共死の一体化』、『皇民化教育』、『戦陣訓』等を媒介としてはじめて見えてくる『評価としての軍命令・隊長命令』が、本件摘示事実の真実性判断の要点なのだ」という被上告人らの不当な論点ずらしに、無批判につきあってしまっている議論である。
  さらにいえば、原判決が、上告人らが判断を求めている事項について「本来歴史研究の課題」である誤ったレッテルを貼った上で、「司法にこれを求め、仮にも『有権的な』判断を期待するとすれば、いささか、場違いなこと」と非難している点については、非難すべき相手を全く間違っていると反論せざるをえない。
 確かに「評価としての軍命令」論の当否については、「歴史研究の課題」として「多くの専門家によるそれぞれの歴史認識に基づく様々な見解が学問の場において論議され、研究され蓄積されて言論の場に提供されていく」ということでよいであろう。
 しかし、上告人らが求めているのは、さような「評価としての軍命令」論の当否ではなく、「『無慈悲直接隊長命令』という単純な事実に真実性が認められるか(真実性の証明があるか)」という事項であるということは、一審、控訴審を通じて上告人らが散々述べてきた。
  にもかかわらず、原判決は、「歴史的事実」という曖昧な概念や、前記のような「読まれ方の変化」という奇妙な理屈を一方的に持ち出すなどした上で、上告人らが裁判所に判断を求めてもいない「『評価としての軍命令』論の当否」の問題が本件焦点かのように述べて、「そんな点に司法判断を求めるのは場違い」として上告人らの請求を退けるという暴挙をなしている。
 「司法の場に歴史研究の課題を持ち込むのは場違い」との非難を向けられるべきなのは、むしろ、本来の争点である「『無慈悲直接隊長命令』という単純事実の真実性」という点から、「『評価としての軍命令』の当否」へと争点を無理にスライドさせようとした被上告人らであろう。上告人らへの原判決の「場違い」との非難は、お門違いも甚だしい。
  上告人らが判断を求めている「『無慈悲直接隊長命令』という単純な事実に真実性が認められるか(真実性の証明があるか)」という事項については、司法の「有権的な」判断が十分可能であり、実際に原判決もその判断を、「真実性の立証はない」という形で、まさになしたのである。上告人らはそれ以上の事項について判断を求めてはいない。にもかかわらず、さらなる歴史研究の課題について上告人らが裁判所に判断を要求しているかのように述べて、場違いと断じた原判決は明らかに失当である。
   ァ,泙気靴原判決が指摘しているような「事実としての隊長命令・軍命令」から「評価としての軍命令」への社会的関心への移行という現象は、史実研究や新証言の成果が蓄積されて言論の場に提供されていった結果生じた「事実としての隊長命令・軍命令」の真実性の揺らぎを踏まえたものなのである。
 すなわち、「評価としての軍命令」の登場とそれへの関心の移行は、むしろ、「事実としての隊長命令・軍命令」が歴史的事実としての正当性を持たないことが露顕したことを物語る事象であり、その確たる証拠であると評価すべきなのである。そのような実態を見ず、「評価たる軍命令」の内実を解明するために議論が重ねられる機会の保障が、本件訴訟の争点(「事実としての隊長命令・軍命令」の有無)に関しても重要かのように述べる原判決には大いなる欺瞞がある。
Α〇廚Δ法◆嵶鮖謀事実」といえるようななにがしかの事柄について、表現の自由、歴史的事実探求の自由が、死者の名誉や遺族の敬愛追慕の情の保護に優先されやすくなる(梅澤のような生者の名誉に優先されやすくなることもあるとは、上告人らは考えない)ということがあるとすれば、それは、餮鼎せ実なので資料が少なくなっていて事実確定が困難であり、通常の立証責任で結論を出すのが不適当、鯆垢せ間の経過により、代替わりが幾度か重ねられて、遺族への被害が軽減するあるいは法益(の主体)が消失する、鵑修里茲Δ卜鮖謀事実化すると、私的な利害が減少ないし消滅する一方、「現在の国や社会のあり方に影響を与えている過去の史実」として、国民の共有財産のようになっていき、想像力や仮説を交えた自由な議論、意見が許容されやすくなる、等の考慮が働くからではないかと思われる
 しかし、本件をみると、証明力のある資料が多く残っていて事実確定が困難とはいえないこと、代替わりは生じていないこと(赤松秀一請求部分に関してみても、赤松秀一も赤松大尉の弟として同一世代である)、焦点たる「無慈悲直接隊長命令」の有無についてはいまだ議論の渦中にある深刻なテーマであり想像力や仮説を交えた自由な議論、意見が許容されるような事柄とはいえないこと等の事情が指摘でき、問題を「歴史的事実」という範疇に落とし込めて、表現の自由、歴史的事実探求の自由等の考慮が働く幅を広く認め、上告人らの被害回復を認めないとの判断をなすのは失当である。
 原判決には、「歴史的事実」の特殊性について、上記のような緻密な検討をした痕はない。「長年にわたって出版を継続」、「歴史的事実」という要素が何故に、名誉の保護を後退させてよいとの判断につながるのかについて、原判決は、実質的には語るところは何もないのである。いくど読み返してみても、原判決が述べるところは、「長い間権利侵害を主張せず黙って許容してきたのだから、いまごろ救済を求めても、応じられない」という程度の内容しかないのではないかと思えてならない。
  全体として、原判決の判断は、「表現、言論の自由の保護」に傾きすぎ、「名誉の保護」をあまりにも蔑ろにしている解釈である。
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上告理由書 第2
 
第2 『沖縄ノート』による上告人赤松秀一に対する、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否に関する憲法解釈の誤りないし憲法違反並びに理由不備
1 はじめに
  赤松秀一の控訴を棄却した原判決には、以下のように憲法13条及び21条の解釈の誤りないしそれらに対する違反、並びに理由不備(民事訴訟法312条2項6号)があって、それら憲法解釈の誤り、憲法違反及び理由不備が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄されるべきである。
 
2  敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否についての憲法解釈の誤りないし憲法違反
(1)明白性等の基準を用いたことの誤り
  原判決は、赤松秀一の請求についても、梅澤の場合と同様、前記の明白性等の基準を用いて不法行為の成否を判断するとした。
 しかし、本件では、赤松秀一の請求についても、通常の名誉毀損と同様の基準すなわち真実性・真実相当性の法理をもって不法行為の成否の判断がなされるべきであり、原判決には民法709条の解釈に関する判断を誤っている。
 赤松秀一の請求について、原判決が誤って明白性等の基準を適用したのは、単に民法709条という法令の解釈の誤りにとどまらず、憲法13条の規定する幸福追求権の具体化たる人格権の一つである遺族の故人に対する敬愛追慕の情についての解釈の誤り、あるいはその遺族の故人に対する敬愛追慕の情と憲法21条の規定する表現の自由との調整についての解釈の誤りという意味で、憲法の解釈の誤りないし憲法の違反にも該当する。
 一審、控訴審を通じて、上告人らが縷々主張してきたとおり、『沖縄ノート』において叙述されている赤松大尉による渡嘉敷島住民らへの自決命令の事実について、真実性は認められず(この点は、一審判決、控訴審判決も揃って認めているところである)、かつ、その事実は、昭和48年5月の『ある神話の背景』(甲B18)の出版により真実相当性を喪失していたものである(そのことは、平成18年12月発表の文科省の平成18年度の教科書検定意見や、平成19年12月の教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会がまとめた報告によっても、確認されているといえる)。
 よって、真実性・真実相当性の法理に従って判断されれば、『沖縄ノート』による赤松秀一に対する、死者たる赤松大尉への遺族としての敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立は、肯定されるはずである。
 よって、原判決の前記の憲法解釈の誤りないし憲法違反の誤りが是正されれば、それが判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
(2)本件で真実性・真実相当性の法理が用いられるべき理由
  遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の要件論についてはこれまで最高裁判所の判例がないが、少なくとも本件においては、その要件は、真実性・真実相当性の法理が用いられるのが相当である。
 理由は、一審の原告準備書面(3)16頁以下でも述べたところと一部重複するが、下記の諸点である。
  名誉権という人格権に由来する法益
   刑法230条2項で死者の名誉についての名誉毀損罪が定められているように、死者の名誉を侵害する行為が違法であって、かかる侵害行為から保護を図るべき法益(私的利益)が存在することは、明らかに認められる。その法益の内実は、死者自身の名誉と解する説もあるが、死者は法益主体ではなく、生存している人々の心情と無関係に死者の社会的評価を保護する必要は認めにくいため、遺族の故人に対する敬愛追慕の情と解する説が有力である。これまで、その見解に立って、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為が成立しうることを述べた下級審判例は数多い。
    このように、「遺族の故人に対する敬愛追慕の情」の保護は、沿革的には「死者の名誉」の保護に代替するものとして解釈されて現れた理論である。すなわち、「遺族の故人に対する敬愛追慕の情」は名誉権に由来する法益であることは明らかであり、その侵害の不法性に関する判断枠組は、名誉毀損と同様のものが用いられるべきである。
  過去の下級審判例
  死者に対する名誉毀損行為により、遺族が死者に対する敬愛追慕の情が傷つけられ、精神的苦痛を被ったときは、遺族に対する不法行為として一般私法上の救済の対象となり得ることは、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(判例時報1071号33頁。小説「密告」事件)、東京地裁昭和58年5月26日判決(判例時報1094号78頁。受田代議士事件)等においても認められている。
  さらに、大阪地裁平成元年12月27日判決(判例時報1341号53頁。エイズ・プライバシー訴訟)も、当該事案においては、問題の報道は死者の名誉を著しく毀損し、かつ生存者の場合であればプライバシーの権利の侵害となるべき死者の私生活上他人に知られたくない極めて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露したものであり、そのような報道により遺族(死者の両親)は死者に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されたものである旨認定し、遺族の敬愛追慕の情という人格的利益の侵害による不法行為が成立することを、正面から認めている。
  そして、前記エイズ・プライバシー訴訟においては、違法性阻却事由については、「当該事柄が公共の利害に関する事実である場合で、かつ、取材及び報道が公益を図る目的でなされた時には、当該取材の手段方法並びに報道された事項の真実性又は真実性を信ずるについての相当性及び表現方法等の報道の内容等をも総合的に判断したうえで、遺族の個人に対する敬愛追慕の情の侵害につき違法性が阻却される場合がある」と判示し、基本的に、名誉毀損一般に関する不法行為の成否の判断(最高裁の前記昭和41年判決)にならった枠組みを示している。
  すなわち、これらの裁判例においては、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、特段に要件を厳格化したりするという判断はなされていないのである。
 『沖縄ノート』は赤松大尉生前からの出版であること
  被上告人らは、遺族の敬愛追慕の情を害する不法行為の成立については、摘示事実の虚偽性について請求者側に立証責任を課すなどの厳格な要件を満たすことが必要とし、それを裏づける裁判例として、東京高裁昭和54年3月14日判決(「落日燃ゆ」事件)を挙げる。この考え方は、原判決の明白性等の基準に通ずるものがある。
 しかし、この「落日燃ゆ」事件は、死者が亡くなって44年余りを経てから死者の名誉を害するような事実について記述された部分のある著作物が初めて出版された事件であり、そのような相当に長い年月の経過があるという特殊な個別的事情に鑑み、「歴史的事実に移行した」事実については「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という判断から、かような立証責任の転換が図られたものである点に留意されねばならない。
 一方、本件についてみれば、『沖縄ノート』は、赤松大尉の生前に出版されたものであり、その時点では、摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではなく、「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くない。
 その意味で、「落日燃ゆ」事件判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件あるいは類似の要件が適用されるべきであると考えるのは、失当である。
  ぁ 嵶鮖謀事実」であることに基づく要件の厳格化は不当
 被上告人らは、死者に関する事実が「歴史的事実」に関するものである場合は、敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件のうち、虚偽性については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」あるいは「摘示された事実がその重要な部分において全くの虚偽であること」という形にさらに厳格化することが妥当と主張し、それを裏づける裁判例として、百人斬り訴訟第一審判決(乙1)及び控訴審判決(乙27)を挙げる。
 原判決は、それらとも異なる明白性等の基準を本件では採用したが、その内実は、「歴史的事実」について特殊な基準を用いているという点、そして「新たな資料等により当該記述の内容が真実でないことが明白になったこと」を要件の一つとしているという点で、百人斬り訴訟第一審判決及び控訴審判決と非常に強い類似性がある。
 この両判決は、「死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくもの」であり、「歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから、たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても、相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合には、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となる」(乙1・108、109頁。この部分は控訴審判決でも変更なし)という観点から、前記のような虚偽性の要件の厳格化を導いている。
 そして、両判決は、「本件各書籍は、両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり、問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は、既に、日中戦争時における日本兵による中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべき」(乙1・110頁。傍点は上告人ら代理人。この部分は控訴審判決でも変更なし)と判示して、厳格化した要件の適用をなしている。すなわち、事実摘示された本人の死後一定期間が経過している点を当該事実が「歴史的事実」であると認定する主たる根拠としているのである。
 これに対して本件においては、繰り返しになるが、問題の出版行為は赤松大尉の生前に開始されたものであり、「相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合」には該当しないケースであることは、明白である。
 その意味で、百人斬り訴訟第一審判決あるいは控訴審判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件、あるいはそれに類する明白性等の基準が適用されるべきであると考えるのは、失当である。
    ァ’烝靴紡个垢詭祥脊迷擦良塰々坩戮糧獣粘霆爐箸龍儿
 梅澤に対する名誉毀損の不法行為が真実性・真実相当性の法理に従って判断されるべきことは、前記第1のとおりであるが、一審、二審とも暗黙のうちに自認しているように、梅澤に関する不法行為と赤松秀一に関する不法行為は、基礎事実が時期、場所、事象ともほとんど同一ないし一体であり、係争事件としても社会的課題としても共通の内実を有する紛争といえるし、真実の解明の度合いもほぼ同程度であるから、梅澤請求部分と赤松秀一請求部分については、不法行為の成否について同一の基準で判断するのが、妥当と考えられる。その両者についてことさらに異なる基準を用い、それがさらに結論の相違につながることがあるとすれば、当事者、関係者にとっても社会から見ても極めて大きな違和感が拭えないのではないかと思われる。
(3)明白性等の基準とその適用の不当性
  ア はじめに
  原判決は、赤松秀一の請求についても、明白性等の基準を適用して、退けるという結論を導いた。
  明白性等の基準自体の不当性や最高裁判例への違背等については、第1の3で論じたところであり、それは、原判決が赤松秀一の請求に対して明白性等の基準を適用した点にも批判として同じくあてはまる。
 さらに、明白性等の基準を赤松秀一の請求について適用する点については、梅澤の請求に対して適用するのとは別に、下記のような問題点も指摘できる。
  イ  適用場面の問題−「歴史的事実」化する前に真実相当性を喪失していること−
  上告人らは、前記第1の3(3)において、明白性等の基準の適用場面の規範における要件は下記の5点であると述べた。
 々眦戮文共の利害に関する事実に係り
  △發辰僂藐益を図る目的(で出版)
  H行当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ
 つ糠にわたって出版を継続してきた(ところ)
 タ靴靴せ駑舛僚亳修砲茲蠅修凌深太等が揺らいだ
  このうちの「タ靴靴せ駑舛僚亳修砲茲蠅修凌深太等が揺らいだ」という要件の、赤松秀一請求部分についての解釈とあてはめについては、深刻な問題がある。
 まず「真実性等が揺らいだ」との点は、「真実性及び真実相当性を失った」との意味であることは明らかであろう。原審の控訴理由書6頁以下、控訴人準備書面(1)5頁以下で詳論したとおり、出版が継続されている場合は、最新の名誉毀損行為時すなわち現在(事実審の口頭弁論終結時)が、真実性判断だけでなく、真実相当性判断の基準時にもなる関係から、真実性の存否と真実相当性の存否の結論が一致すると解される。そのため、真実性と真実相当性は同時に失われるのである。
  問題は、原判決は、規範へのあてはめの中で、真実性及び真実相当性を失った時期について考慮をしていない点である。
  前記規範によれば、要するに、「の後にい了実を経て、さらにその後、イ両況が発生した」ということが必要であり、そのような先後関係も暗黙の要件になっていると解されるのである。
  規範の書きぶりだけでなく理論的にもそれは当然である。すなわち、原判決の示した価値判断は、ある出版物が「真実性、真実相当性を長く保持してきた」ならばそのことに価値を認め、「その後に現れた」新資料により内容が覆ったとしても、その書籍の出版継続を直ちに通常の基準をもって違法とすることはせず、特別な基準で違法か否かを判断するべきというものである。要するに、「真実性、真実相当性を長く保持してきた」という点に、出版継続が広く許容される根拠を認めているのである。とすれば、前記の先後関係は当然に必要となる。
  しかるに、本件での『沖縄ノート』の自決命令の記載についての真実性及び真実相当性を巡る経過はどうか。『沖縄ノート』が昭和45年9月に出版された時点で真実相当性があったと仮にしても、その後まもない昭和46年10月から月刊誌「諸君」において曽野綾子による『ある神話の背景』の連載が開始され、昭和48年5月にその連載をまとめた単行本『ある神話の背景』(甲B18)が出版された。
 遅くともこの『ある神話の背景』(甲B18)の出版により少なくとも《赤松命令説》の真実性は完全に否定された、あるいはどう控えめに言っても、《赤松命令説》の真実性の証明があるとはいえない状況が生じたこと(例えば、昭和49年発行の『沖縄県史第10巻』〈乙9〉では「どうして自決する破目になったか、知る者は居ないが、誰も命を惜しいとは思っていなかった」〈690頁〉など記載されて『沖縄県史第8巻』〈乙8〉に記載のあった《赤松命令説》が削除された)は、上告人らがこれまで縷々主張してきたとおりである。
 その後も、『沖縄ノート』は今日まで長く増刷され続けているが、少なくとも《赤松命令説》について言えば、「早々に新資料が出現して真実性等が揺らいだにもかかわらず出版を継続してきた」というだけであり、「長年にわたって出版を継続してきたところ、新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだ」という経過では全くない。
 また、《赤松命令説》が本土に知られるようになったのが昭和40年(『沖縄問題二十年』の発行)ないし昭和45年3月ころ(赤松大尉が渡嘉敷島での慰霊祭に出席しようとした際の報道)であること、昭和45年、46年当時は、赤松嘉次元大尉(以下「赤松大尉」という)自身が自決命令を否定していた(甲B2、甲B20、甲B20・17頁等)ことも考え合わせると、昭和45年ないし昭和48年当時に《赤松命令説》が「歴史的事実」となっていたと考えるのは到底無理がある(なお、同じ慶良間列島で同時期におきた同種事案である座間味島の集団自決についての《梅澤命令説》も、やはり同様であろうと思われる)。
  にもかわらず原判決は、前記きイ陵弖錣寮荼經愀犬僚斗彑にあえて目をつぶり、『沖縄ノート』に摘示されている《赤松命令説》についても、これらの要件を満たすものとして判断しており、その理屈とあてはめには重大な齟齬があると言わざるをえないし、さらにいえば、結局のところこの適用場面の規範も極めて恣意的な基準でしかないことが、自ずと明らかになっているといえる。
 明らかに疑義のない「歴史的事実」となってからの出版でありそれが死者の名誉に関するものであれば、遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為についても明白性等の基準のような厳格な要件も妥当する余地もあるが、本件ではそうではなく、通常どおり真実性・真実相当性の法理が適用されるのが相当である。
  ウ  「読まれ方変遷論」の不当
  原判決は、赤松秀一請求部分にも明白性等の基準を適用し、その第2要件である重大不利益の存否の判断において、「読まれ方の変化」を斟酌して、その要件は充足しないと結論しているが、原判決の考え方には、「本件各記述は今となっては一つの評価、意見、論評であると受け取ることができる。だから許容されるべき」との実質的考慮があるように思われる(前記第1の3(4)ウ(ア)cと同旨)。
 しかし、事実の摘示と意見ないし論評の表明との区別についての平成9年9月9日判決の基準をもって『沖縄ノート』の赤松大尉に関する記述を検討すれば、やはりそれも意見論評に尽きるものではなく、《赤松命令説》の事実摘示が含まれることも一審の原告最終準備書面(その1)13頁以下、19頁以下で述べたとおりである。
 『沖縄ノート』の赤松大尉に関する事実の摘示の内容が「評価としての軍命令であり、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長であるともいえる」などと原判決が述べることは信じがたいところである。同書においては、赤松大尉に関しては、「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている」、「集団自決を強制したと記憶される男」、「『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」、「若い将校たる自分の集団自決の命令」等の、個人の行為に関する具体的表現と、それを前提とした赤松大尉個人への非難が書き連ねられており、それらの記述は、一般の読者がどう読んでも「評価としての軍命令の記述である」と理解することは不可能である。しかるに、原判決はそれを可能かのように述べており、その点もやはり経験則や条理に著しく反する不相当な認定である。
    エ 名誉の捉え方について名誉感情等との混同
 原判決は、赤松秀一請求部分についての重大不利益の要件のあてはめにおいて、「本件各記述は、赤松大尉の遺族にとっても、個人の名誉に関する限りでは、もはや取り立てて取り上げるほどの痛痒をもたらさないものになっていたことを意味するといえる」(278頁)などと述べて、重大不利益はなかったと結論づけている。
 上記の判断には、そもそも、名誉権侵害の結果については本来抽象的危険で足りるところを具体的危険あるいは現実の社会的評価の低下を要求しているといった誤った解釈があり、また、社会的評価としての名誉と名誉感情の混同もあり、名誉権に関する基本的解釈の誤りを多分に含んでいるのは前記第1の3(4)ウ(イ)で述べたとおりである。
    オ 不利益性の認定の不当
  原判決の重大不利益の要件へのあてはめ自体も著しく一方的である(前記第1の3(4)ウ(ウ)bと同旨)。
 原判決は、本件各記述は、赤松大尉の遺族にとっても、個人の名誉に関する限りでは、もはや取り立てて取り上げるほどの痛痒をもたらさないものになっていたことを意味するといえる」(278頁)と、ひどく冷酷な認定をしたが、実兄が住民多数に無慈悲にも自決を命じたなどと歴史書や評論等に書かれて売られ続け、それが後世にも残っていくことについて、さしたる痛痒もないなどと受け止める人間がいようか。赤松秀一は赤松大尉を敬愛するその実弟であり、「兄の不名誉な書かれ方は耐え難い」とか「虚偽の事実をもって兄をなじるようなことはもうやめてくれ」という感情は、ある意味我が事以上に切実な面がある。
    カ 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対して
 原判決は、重大不利益のあてはめの最後の部分において「著者らの立場からすると、当時の通説に基づくものとして初めは真実性が問題とされることもなかった本件各記述について、その内容を新しい資料に基づいて再検討する機会もなかったものといわざるを得ず、控訴人らからはこれに関する故意過失についての具体的な主張もない」(280頁)などと説示する。
 しかし、名誉毀損の不法行為性に関する被上告人らの故意過失、すなわち、真実性喪失の認識あるいは認識可能性という点については、一審、控訴審を通じて、上告人らは縷々主張立証してきたのであり、原判決がその点を理解していないことについては、上告人らと到底了解できない(前記第1の3(4)ウ(ウ)cと同旨)。
 《赤松命令説》について言えば『ある神話の背景』が話題になったことから、被上告人らは隊長命令の記述が真実性等を喪失したことについて十分に認識しまたは認識可能であったのだから、故意過失は優に認められるし、その趣旨の主張立証を上告人らは十分に行っている(被上告人大江は、『ある神話の背景』が発行されてすぐ読んだとも本人尋問で供述している〈大江調書39頁〉。被上告人岩波書店が、旧版の『太平洋戦争』の昭和61年の第2版出版時に《赤松命令説》を削除したのも、《赤松命令説》が真実性を喪失したとの認識があったからであり、その旨の主張も上告人らは行っている)。
 前記のとおり、真実相当性の有無がすなわち(責任の次元での)故意過失の有無なのであり、真実相当性について主張立証が尽くされている本件において、上告人らに故意過失の主張が欠けるなどとする原判決の判断は極めて不当である。
    キ まとめ
  赤松秀一請求部分についてみても、全体として、原判決の判断は、「表現、言論の自由の保護」に傾きすぎ、「死者に対する敬愛追慕の情の保護」をあまりにも蔑ろにしている解釈であると言わざるをえない。
 
3  理由不備
(1)請求原因として挙げた期間の不法行為の全部についての判断の遺漏
  原判決には、赤松秀一が請求の中で請求原因として挙げた不法行為について、全てを理由中で判断していないにもかかわらず赤松秀一全部敗訴と結論づけているという理由不備がある。その内容は以下のとおりである。
  赤松秀一は、『沖縄ノート』の赤松大尉に関する記載によって遺族の故人に対する敬愛追慕の情を侵害されたとの不法行為に基づく損害賠償請求を行っている。その不法行為の期間は、特に限定的していない。
 『沖縄ノート』は昭和45年9月発行であり、その後の継続した出版の不法行為性を、赤松秀一は本件請求の中で主張しているのであるが、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害との法律構成をとっている以上、赤松大尉が死去した昭和55年1月13日以降の期間が不法行為の期間と限定されることはやむをえないと考える。
 しかし、昭和55年1月13日から控訴審の口頭弁論終結時までの期間、継続された不法行為については、原審は当然に、その期間全般についての判断が必要であった。
  改めて確認するが、被上告人らは消滅時効を援用する意思表示や、除斥期間の主張はしていない。とすれば、昭和55年1月13日以降の不法行為について原審は判断をせねばならないが、なぜか、一定程度近時の(その時期も不明である。その点は後記(2)に述べるとおり深刻な問題である)出版継続の不法行為の成否についてしか判示していないのである。除斥期間は、当事者の主張がなくとも職権で適用することは可能かとも思われるが、そのような解釈ならばそれについても判決理由中で判示されねば、審理不尽ないし判決の理由不備との評価を免れない(仮に除斥期間を適用し、平成17年8月5日の提訴から20年前以降の不法行為を問題とするとしても、昭和60年8月5日以降の部分について判断が必要なはずである)。
(2)遺漏した判断の重要性と原判決における誤魔化し
 上記のように原判決が判断を遺漏していることは明らかであるが、それは、「渡嘉敷島での集団自決及びそれについての軍命令ないし隊長命令が、いつから歴史的事実となったのか」、そして、「《赤松命令説》いつから真実相当性を喪失したのか」という極めて重要なポイント、さらに言えば原判決の弱点に深く関わる問題であるということに留意されねばならない。
 すなわち、原判決は明白性等の基準を用いたが、その適用範囲は、「々眦戮文共の利害に関する事実に係り、かつ、△發辰僂藐益を図る目的で出版された書籍について、H行当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ、つ糠にわたって出版を継続してきたところ、タ靴靴せ駑舛僚亳修砲茲蠅修凌深太等が揺らいだというような場合」である。前記2(3)イにおいて述べたとおり、具体的に言えば「の後にい了実を経て、さらにその後、イ両況が発生した」ということが必要であり、そのような先後関係も暗黙の要件になっている。
 とすれば、いつの時点で「長年にわたって出版を継続してきた」すなわち歴史的事実になったかということと、いつの時点で「新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだ」すなわち真実性・真実相当性が喪失したかということの判断は、本来必須のはずである。しかし、原判決はそれを怠っているのである。
  あえて指摘すれば、その点まで踏み込んで吟味判断すれば、前記のとおり、本件では歴史的事実になるはるか以前に真実相当性が喪失していたため、明白性等の基準の適用が妥当しなくなる(あるいはそれを無理に適用すれば理由齟齬が生じる)ことが念頭にあったがゆえの意図的あるいは無意識での「誤魔化し」が原判決に含まれていると指摘できる。
 また、原判決は「歴史的事実」を理由に特別な新基準である明白性等の基準を用いたが、そのような考え方を是としても、歴史的事実化する以前の分については、当然真実性・真実相当性の法理をもって判断せねばならぬはずである。もし「歴史的事実」化したのが赤松大尉死去の昭和55年1月13日以後であれば、同日から「歴史的事実」化するまでの間は、真実性・真実相当性の法理にしたがってあてはめれば、真実性も真実相当性も認められないことから赤松秀一の請求が認められることとなると思われるが、原判決はそれを避けるため、あえて、「(いつころからは明瞭ではないが)『歴史的事実』化して以降の最近の部分」のみを取り上げて、不法行為は全く成立せずとの結論を述べたのではないかとの疑いも差し挟まざるをえないのである。
(3)判断遺漏の点の重要性と判決の結論への影響
  上記のように原判決が判断を遺漏した点は、原判決の明白性等の基準の妥当性にも関わる重要事項である。
 原判決が遺漏した判断を、改めて正当になした場合、赤松秀一の請求を真実性・真実相当性の法理に従って判断すれば一定の時期から真実性・真実相当性が失われた本件ではその請求は認容されることは明らかである。仮に明白性等の基準自体を是とした場合でも、「長年にわたって出版を継続」する前に「新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだ」という本件は、同基準の適用の範囲外ということになり、やはり全体が真実性・真実相当性の法理に従って判断されるので、同様の結果になる。
 それらの点で、原判決の判断の遺漏は、重大な理由不備であり、原判決のその誤りが是正されれば、それが判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
                                                                    以 上
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上告受理申立書 目次



 
第1 『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』による上告受理申立人梅澤裕

  に対する名誉毀損の不法行為の成否に関する最高裁判例違反
  及び法令解釈の誤り・・・・2
1 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
 
2 最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決等と相反する判断について ・・2
(1)真実性・真実相当性の法理への違背・・・・・・・・・・・・・・・・・2
(2)最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決への違背・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
(3)最高裁の判例理論への違背の重大性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
(4)原判決は事例判決ではないこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
 
3  原判決の定立した新基準の不当性と最高裁判例への違背等・・・・・・・・・・・・・8
(1)はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(2) 新基準を定立する必要性の不当について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
ア  はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
  イ  言論出版の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由等は理由として不当
                                     ・・・・・9
   ウ  「著者に対する負担等と言論への萎縮効果への懸念」は理由として失当・10
   エ  「主張・批判・再批判の過程の保障の必要」も理由として失当・・・・・・・・・・・・13
(3)新基準の適用場面の曖昧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
    ア  明白性等の基準の適用場面についての原判決の摘示・・・・16
  イ あてはめの困難性と価値判断上の問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
   (ア)「々眦戮文共の利害に関する事実」という要件について・17
   (イ)「つ糠にわたって出版を継続してきた」という要件について・17
(4)新基準の3要件の不当な厳格性と名誉権に関する解釈の誤り・・・・・・・・19
    ア  はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
  イ 明白性の要件について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
  (ア)二重の加重の不当性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
  (イ)「現実の悪意の法理」と実質的に同一・・・・・・・・・・21
   ウ 重大不利益の要件について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
  (ア)「読まれ方変遷論」の採用は不当・・・・・・・・・・・・・・22
       a 原判決が重視した「読まれ方の変化」・・・・・・・・・・22
       b 昭和31年判決、平成15年判決への違背・・・・・23
       c 平成9年9月9日判決への違背等・・・・・・・・・・・・・・・・26
       d 平成9年5月27日夕刊フジ事件判決への違背等・・・28
    (イ)名誉の意義あるいは名誉権侵害における結果の捉え方の誤り
         及び最高裁判例違背・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
    a はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
        b 名誉感情との混同・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
        c 名誉権侵害の結果の捉え方の誤り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
    (ウ)重大不利益の要件についての補足・・・・・・・・・・・・・・・・・33
        a 法体系の統一性を害する解釈・・・・・・・・・・・・・・・・33
        b 不利益性の認定の不当・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
    c 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対して・・・35
    d 提訴の目的の評価について・・・・・・・・・・・・・・・・37
  エ 社会的非許容性の要件について・・・・・・・・・・・・・・・・38
(5)歴史的事実論の不当性・・・・・・・・・・・・・・・・39
ア 原判決の論及する歴史的事実論・・・・・・・・・・・・・・・・・39
イ 歴史的事実論の欺瞞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
 
第2 『沖縄ノート』による上告受理申立人赤松秀一に対する、
     遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否
    に関する法令解釈の誤り・・・・・・・・・45
1 はじめに・・・・・・・・・・・・45
 
2  敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否についての法令解釈の誤り・・45
(1)明白性等の基準を用いたことの誤り・・・・・・・・・・・・・・45
(2)本件で真実性・真実相当性の法理が用いられるべき理由・・・・46
(3)明白性等の基準とその適用の不当性・・・・・・・・・・・・・・50
  ア はじめに・・・・・・・・・・・・・50
  イ  適用場面の問題−「歴史的事実」化する前に真実相当性を
     喪失していること−  ・・・・・・・・50
  ウ  「読まれ方変遷論」の不当・・・・・・・・・・・・・・・53
    エ 名誉の捉え方について名誉感情等との混同・・・54
    オ 不利益性の認定の不当・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55
    カ 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対して・・55
    キ まとめ・・・・・・・・・・・・・・56
 
3  審理不尽・・・・・・・・・・・・56
(1)請求原因として挙げた期間の不法行為の全部についての判断の遺漏・・56
(2)遺漏した判断の重要性と原判決における誤魔化し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
(3)判断遺漏の点の重要性と判決の結論への影響・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
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上告受理申立理由書
上告受理申立理由書 

大阪高等裁判所平成20年(ネ受)第460号

上告受理申立人 梅澤 裕、赤松秀一

相  手  方 株式会社岩波書店、大江健三郎

 

上告受理申立理由書

 

                          平成20年12月29日

 

最高裁判所 御中

 

            上告受理申立人ら代理人

             弁護士  松本藤一

 

               同    徳永信一

 

               同    岩原義則

 

               同    大村昌史

 

               同    中村正彦

 

               同    木地晴子


第1 『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』による上告受理申立人梅澤裕に対する名誉毀損の不法行為の成否に関する最高裁判例違反及び法令解釈の誤り

1 はじめに

 上告受理申立人梅澤裕(以下「梅澤」という)の控訴を棄却した原判決には、以下のように、最高裁判所の判例と相反する判断があるとともに、民法709条の解釈に関する重要な事項について判断を誤った違法があって、それらの判例違反ないし違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである。

 

2 最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決等と相反する判断について

(1)真実性・真実相当性の法理への違背

 民事上の不法行為たる名誉毀損の成否については、「その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である」との最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決(昭和37年(オ)第815号・民集20巻5号1118頁。以下「これを昭和41年判決」という)が示した基準が、これまで確立、維持されてきた判例法理であるところ(以下、これを「真実性・真実相当性の法理」という)、本件の名誉毀損の成否に関し、原判決は、長年にわたって出版が継続されてきたが新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだというような場合にあっては、その出版の継続は、「/靴燭併駑租により当該記述の内容が真実でないことが明白になり、他方で、当該記述を含む書籍の発行により名誉等を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けているなどの事情があり、E該書籍をそのまま発行し続けることが、先のような観点や出版の自由などとの関係を考え合わせたとしても社会的な許容の限度を超えると判断されるような場合」(原判決121頁)にのみ不法行為を構成するとの判断を示した(以下これを「明白性等の基準」と呼ぶこととする)。

 昭和41年判決の解釈に従えば、本件のように長く継続されている出版も「現に行われている表現行為」である以上、その名誉毀損の不法行為の成否は当然に真実性・真実相当性の法理によって判断されるべきところ、原判決は、出版が継続されているケースのうち一定の場合においては、真実性・真実相当性の法理とは全く異なる基準によって名誉毀損の成否が判断されるべきとの解釈を示しており、原判決には、昭和41年判決に相反する判断がある。

 また、原判決の判示は、名誉毀損の不法行為に関する民法709条の解釈に関するものであるが、表現の自由と名誉の保護の調整という重大な事柄についての判断を包含するものであり、「法令の解釈に関する重要な事項を含む」(民訴法318条1項)ことも明らかである。ところが原判決は、名誉毀損の不法行為に関する民法709条の解釈において、真実性・真実相当性の法理とは異なる明白性等の基準を用いており、その点に判断の誤りがある。

 一審、控訴審を通じて、上告受理申立人らが縷々主張してきたとおり、『太平洋戦争』(文庫版。原判決別紙書籍目録1の書籍。特に断りのない限り以下同じ)及び『沖縄ノート』(原判決別紙書籍目録2の書籍)において叙述されている梅澤による座間味島住民らへの自決命令の事実について、真実性は認められない(この点は、一審判決、控訴審判決も揃って認めているところである)。そして、その事実については、『沖縄ノート』は、昭和60年ころないし平成元年ころのいずれかの時点(この間、昭和60年7月30日神戸新聞報道〈甲B9〉、昭和61年6月6日神戸新聞報道〈甲B10〉、昭和61年3月の『沖縄史料編集所紀要』の発表〈甲B14〉、昭和62年4月18日神戸新聞報道〈甲B11〉、同月23日東京新聞報道〈甲B12〉、昭和63年1月号小説新潮掲載『第一戦隊長の証言』の発表〈甲B26〉、平成元年7月の『座間味村史』上下巻の発表〈乙49、乙50〉などがあり、いずれの内容も《梅澤命令説》を否定するものであった)、あるいは、平成12年12月の『母の遺したもの』(甲B5)の出版の時点から、あるいはどんなに遅くとも平成13年12月に同書が沖縄タイムス出版文化賞を受賞して(甲B93)その社会的評価が確立し周知されたときから、真実相当性を喪失していたものである。また同じく、梅澤による座間味島住民らへの自決命令の事実については、『太平洋戦争』は、平成14年の出版開始当初から、真実相当性を有しなかった。そのような真実相当性の喪失は、平成18年12月発表の文科省の平成18年度の教科書検定意見や、平成19年12月の教科書図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会がまとめた報告(甲B104)によっても、確認されているといえる。

 よって、真実性・真実相当性の法理に従って判断されれば、両書籍による梅澤に対する名誉毀損の不法行為の成立は肯定されるのであるから、原判決の最高裁昭和41年判例への違反と、名誉毀損の不法行為に関する民法709条の解釈の誤りが是正されれば、それが判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。

(2)最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決への違背

  原判決は、名誉毀損行為時点の真実相当性の有無を判断することなく名誉毀損の成立を否定する結論を導いており、最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決(平成8年(オ)第576号・判例時報1778号49頁。以下「平成14年判決」という)にも相反する判断をなしている。

 すなわち、平成14年判決は、「摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由が行為者に認められるかどうかについて判断する際には、名誉毀損行為当時における行為者の認識内容が問題になるため、行為時に存在した資料に基づいて検討することが必要となる」と判示し、真実相当性の判断基準時は名誉毀損行為時であるとの解釈を示しているが、原判決は、本件の名誉毀損行為時における真実相当性を判断することなく、事実について「新たな資料等により当該記述の内容が真実でないことが明白」になったことなどを要件とする明白性等の基準を用いており、最高裁判例違背がある。

  本件の相手方らの梅澤に対する具体的な名誉毀損行為及びその時期は、『太平洋戦争』については、平成14年7月の出版開始時から原審の口頭弁論終結時まで継続された出版とそれに伴う出庫行為である(上告受理申立人らがなした出版等の差止請求に対して、相手方らは出版・出庫の停止を主張しておらず、出版・出庫が継続されていたことは訴訟上も明らかである)。同書は文庫版になる前に、旧版(昭和43年の第1版、昭和61年の第2版)が出版されているが、当然のことながら、新たに文庫版として出版し出庫していくこと自体も、新たな不特定多数の読者に読まれ、梅澤の社会的評価を低下させるおそれを生じさせており、独立の「名誉毀損の行為」である。

 上告受理申立人らが『太平洋戦争』文庫版による名誉毀損を主張している以上、平成14年判決に従えば、平成14年の出版時とそれ以降の真実相当性を判断せねばならないはずであるが、原審は、独自の明白性等の基準を用いることにより、名誉毀損行為時の真実相当性の有無の判断を全くしていないのである。

 『沖縄ノート』については、具体的な名誉毀損行為及びその時期は、昭和45年9月の出版開始時から原審の口頭弁論終結時まで継続された出版・増刷とそれに伴う出庫行為である。控訴審において上告受理申立人らが強調したとおり、例えば、平成20年5月には59刷が増刷されており、この増刷とそれに伴う出庫も「名誉毀損の行為」である(出版・出庫を続けることは、日々継続される性質の不法行為ととらえることができる)。

 とすれば、やはり平成14年判決に従えば、昭和45年9月の出版開始時から原審の口頭弁論終結時までの継続する名誉毀損行為の各時点の真実相当性が判断されねばならないのであるが(具体的には、真実相当性がどの時点で喪失したかの認定が必要となろう)、原審は、独自の明白性等の基準を用いることにより、出版開始時の真実相当性を認定したのみで、その後継続された名誉毀損行為の期間の真実相当性の有無の判断をしていない。

 その意味で、原判決の上記の解釈は、平成14年判決の判断に相反するものであるとともに、その判断は、名誉毀損の不法行為に関する民法709条の解釈に関する重要な事項を含むものでありながら誤りがあり、それらの判例違反ないし違法が判決に影響を及ぼすことは、前記(1)同様明らかである。

(3)最高裁の判例理論への違背の重大性

  名誉毀損の成否について昭和41年判決に示された判断は、今日までの40年以上にわたり堅持され、前記平成14年判決も含め、下記の各最高裁判決において繰り返し確認、引用され、さらに内容的にもより高度に具体化されてきている。平成14年判決も、昭和41年判決の示した真実性・真実相当性の法理を具体化、精密化したものといえる。

 

○最大昭和56年(オ)第609号昭和61年6月11日判決(北方ジャーナル事件上告審判決)(民集40.4.872

○最二小昭和55年(オ)第1188号昭和62年4月24日判決(反論文掲載請求事件)(民集41.3.490

○最一小昭和60年(オ)第1274号平成1年12月21日判決(民集43.12.2252

○最三小平成1年(オ)第1649号平成6年2月8日判決(民集48.2.149

○最三小平成6年(オ)第978号平成9年9月9日判決(民集51.8.3804

○最三小平成9年(オ)第411号平成11年10月26日判決(民集53.7.1313

○最三小平成7年(オ)第1421号平成14年1月29日判決(ロス疑惑配信記事訴訟上告審判決)(民集56.1.185

○最二小平成8年(オ)第852号平成14年3月8日判決(ロス疑惑配信記事訴訟上告審判決)(判時1785.38

○最二小平成12年(受)第1335号平成15年3月14日判決(民集57.3.229

○最一小平成15年(受)第900号平成17年6月16日判決(判時1904.74

 

 ところが原判決の判断は、一定の場面においてではあるが、かように統一的かつ精緻に確立されてきた判例理論と全く整合しない新たな基準を定立するものであり、その当否については極めて慎重な判断が求められる。

(4)原判決は事例判決ではないこと

  原判決は、「本件訴訟の内容的な特色」(判決書4頁)を判決理由冒頭で指摘するなど、本件の特殊性や個別性を強調している面があるが、原判決は、特殊事例における個別判断を示したといういわゆる事例判決と評価されてはならない。その理由は以下のとおりである。

 まず、原判決の判断の中核ともいえる出版等の継続の場合の不法行為の基準論については、判決書121、122頁で判示されているが、そこでの規範定立の理由づけは明らかに本件個別事情を離れた「一般論」として論じられているし、判決の採用した明白性等の基準(明白性等の3要件)も、その書きぶりは、他の出版継続のケースに対してもその事案内容によっては適用されうるような一般論として表現されているものと読むほかはない。

  実際、原判決後の新聞報道を見ても朝日新聞で「出版後の扱い  新基準」(平成20年11月1日朝刊1面)などと見出しにされるなど、名誉毀損の一場面において、新たな基準が定立されたとの受け止めが一般になされており、新たな明白性等の基準は、社会的にも影響が大きい。

 原判決に戻ると、判決書124頁においては、本件事案は「歴史の教科書に採り上げられるような歴史的事実に関わるもの」と指摘されたうえで、「このような歴史的事実の認定については…」などとして、かなりの程度抽象化された「歴史的事実に関する一般論」が展開され、それが規範定立や事実認定の正当性を補強する理由として述べられている。すなわち、本件事案に限らず、歴史的事実が問題とされる同種事件一般に通用する理論を原判決が提示しようとしていることは、この部分からも明らかである。

 

  原判決の定立した新基準の不当性と最高裁判例への違背等

(1)はじめに

  原判決の定立した新たな基準である「明白性等の基準」については、新基準定立の必要性自体の問題性、適用場面の曖昧さ、定立された3要件の不当なまでの厳格さ(名誉権保護の不十分さ)が、不当性として指摘できるので、以下詳述する。

 また、その中では、明白性等の基準への本件事情のあてはめにおける原判決の解釈が、名誉権の解釈についてのこれまでの最高裁判例の判断に明らかに相反する点が多数あることも併せて指摘する。そして、それらの原判決の解釈は、最高裁判例違反であると同時に、名誉毀損の不法行為に関する民法709条の解釈に関する重要な事項を含むものでありながら誤りがあるといえるものである。かかる判例違反ないし違法は判決に影響を及ぼすものでもあるため、上告受理申立人らは、それらの点も、前記2とは別に、上告受理申立理由として主張するものである。

(2)新基準を定立する必要性の不当について

  はじめに

   原判決は、本件については、真実性・真実相当性の法理ではなく、別の基準を用いて判断する必要があると考えていることは明らかであるが、そのような必要性を認める理由について論ずるところは、下記のとおり、全く説得的ではない。

      言論出版の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由等は理由として不当

    原判決が、新基準定立を導く必要性に実質的に最初に触れているのは判決書117頁の「これを含む本件各書籍は、版を重ね世代を超えて読み継がれてきたものであり、その出版継続の禁止については、言論出版の自由、公共的事項に関する表現の自由、歴史的事実探求にかかる思想信条の自由というような重大な憲法上の法益との関係で、慎重な考慮を必要とする」という部分である。

    しかし、「言論出版の自由」及び「公共的事項に関する表現の自由」を新基準定立の理由とすることが、まず不当である。「言論出版の自由」及び「公共的事項に関する表現の自由」は、「版を重ね世代を超えて読み継がれてきた書籍」に限らず言論出版、表現全般において妥当するものであることは言うまでもないが、それらと、また別の重大な憲法上の法益である「名誉権」との微妙な調整の基準が、真実性・真実相当性の法理として結実しているのであり、「言論出版の自由」及び「公共的事項に関する表現の自由」を理由として調整の基準を変えるというのは、全く非論理的である。

    「歴史的事実探求にかかる思想信条の自由」をも慎重な考慮をなす必要性として挙げていることも、到底理解し難い。本件は「表現行為」を問題にしていることは改めて指摘するまでもないところ、別局面のテーマである「思想信条の自由」が持ち出される理由が全く不明である。相手方大江健三郎(以下「相手方大江」という)がその内心において、あるいはその思想として「無慈悲隊長直接命令」を信じることについては、彼の自由の領域に属するものであるから、上告受理申立人らとしても、それを全く問題視とするものではない。相手方大江がその信じるところを、「無慈悲隊長直接命令」という「事実」として摘示し(その点については、原判決も、判決書129、130、253頁等で十分に認めているところである)、出版物に表現し流通させていることを違法と指摘しているだけである。

    なお、原判決が、「歴史的事実(探求)」の必要性を、新基準定立の理由としようとしている点への批判については、後述する。

     「著者に対する負担等と言論への萎縮効果への懸念」は理由として失当

  原判決は、明白性等の基準の規範定立の部分において、新基準を用いるべき必要性について詳論しているので分析する。

 判決書121頁においては、出版継続の特定の場面については真実性が揺らいでいても「直ちにそれだけで、当該記述を改めない限りそのままの形で当該書籍の出版を継続することが違法になると解することは相当でない」とし、その理由として、「,修Δ任覆韻譴弌著者は、過去の著作物についても常に新しい資料の出現に意を払い、記述の真実性について再考し続けなければならないということになるし、¬祥誠害を主張する者は新しい資料の出現毎に争いを蒸し返せることにもなる。C者に対する将来にわたるそのような負担は、結局は言論を萎縮させることにつながるおそれがある」(注:´↓は上告受理申立人ら代理人が付した)と判示された。

 しかし、まず,砲弔い討蓮△ような価値判断自体が大いに問題である。名誉毀損表現を含む出版を継続し、新たに文庫化ないし増刷して出庫・販売をする場合には、その事実摘示が新しい資料によって誤りであることが判明すれば、著者及び出版社は、直ちにその出版を停止するのは当然の責任であろう(原判決は「過去の著作物」と軽々しく表現するが、正確には「現在進行形で売られ続けている著作物」であるから、問題なのである)。本件のように、相手方らの書籍出版が営利目的行為でもあること、一般人向けのスタンダードな内容のものとして文庫化されている歴史書(『太平洋戦争』)あるいはノーベル賞作家の作品の一つとしていまだに内容的にも信頼性や権威のあるものとして捉えられている評論(『沖縄ノート』)が問題となっていること、焦点となっている事実が「部隊長ないし軍の自決命令」という著名なテーマであって新資料についての情報に相手方らが触れたり入手したりする機会は十二分にあること等からすれば、なおさらのはずである。

  原判決は、,療世砲弔い討蓮著者はある著作物の執筆が終了すれば別の著作活動に移るのであるから、過去の著作のテーマについての新資料の出現に気づく機会がないことも多いにもかかわらず、そのような新資料をチェックして事実を再検討し続けることを求めるのは酷というような価値判断をしているのかもしれない。しかし、そのような新資料に接する機会の有無の問題は、真実性・真実相当性の法理による判断においては、「真実性の喪失を認識しうべきであったか」という過失ないし真実相当性の点で評価され、「作家や出版社に課されるべき標準的な注意をもってすれば認識できるのにしなかった」という落ち度が著者や出版社になければ名誉毀損の不法行為の成立は否定されるのであるから、特段に新基準を定立してまで著者や出版社の表現の自由を厚く保護する必要性があるとはいえない。

  よってやはり、特定人に対する名誉毀損を内容とする出版をしつつ利益を得続けている以上、著者も出版社にも、「新しい資料の出現に意を払い、記述の真実性について再考し続ける」という責任が生じると解するべきなのである。実際、相手方岩波書店は、文庫版になる前の旧版の『太平洋戦争』の出版においては、第2版で《赤松命令説》の記述を削除しており、上告受理申立人らが求めることは十分に現実的なのである。

 前記△砲弔い討癲価値判断が明らかに不当である。名誉毀損表現で被害を受け続けている者が、新たに発見された資料をもって「名誉毀損表現の摘示事実には、真実性も真実相当性もないのだ」と主張して汚名を雪ごうとするのは、当然の権利である。それを幾度行おうが同様である。また現実には、強大な出版メディアに対し、名誉毀損で社会的評価を傷つけられた被害者が、何度も名誉毀損表現の是正を求める場を作っていくことは、力の差からしても、労力やコスト負担の面からも非常に困難なことであって、かように非現実的な「新しい資料の出現毎の争いの蒸し返しの可能性」を新解釈の重要な論拠として語るのは、あまりにバランスを失している。

 このように、新資料をもって名誉毀損の是正を図ろうといる被害者の行為を、「蒸し返し」などと否定的に断ずる原審の人権感覚には首をかしげざるをえない。そのことは、例えば、再審無罪事件に関連する出版の例などを想定しても明白である。新たな証拠が見つかった等の理由で再審が開始され、その結果無罪判決が下された事件は少なくないが、その中には、逮捕や上告審での死刑判決から、30年以上もたって再審無罪がとされた免田事件のような例もある。新証拠により、犯罪の存在に合理的な疑いが生じた(すなわち「真実性が揺らいだ」)結果、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が再審において適用され、無罪とされたのである。そして、もし、「免田栄は殺人を行った」との内容の書籍が再審無罪の時期まで30年以上の長期間売られ続けていたとすれば、新証拠を根拠とした再審無罪判決という「新しい資料の出現」によって、免田は、当該書籍の出版の停止を求めることができると解するべきなのではないか。

 本件での、「自決命令を下し何十人、何百人という住民を死に追いやった部隊長」という汚名を雪ぎたいという梅澤の心情は、その例と比較しても切実さにおいて劣るものでは全くない。

 前記のように、原判決が「言論の萎縮効果への懸念」を理由とする点も、非現実的である。出版時点で真実相当性が認められる書籍について、それが将来的に、顱崢糠にわたって出版を継続されることとなり、その内容が歴史的事実にまでなる」が、髻屬修慮紊忙蠅辰匿兄駑舛砲茲蠅修瞭睛討凌深太が揺らぐ」という予想外の事態が生じ、ところが、鵝屬修里泙渊佝之兮海靴討靴泙辰董廖堯屬修慮總覆┐蕕譴襦廚箸いΔ茲Δ幣賁未房分(自社)が陥ったら大変だ、というような先々の極めて稀なケースまで想定して、表現者ないし出版社が考えて萎縮し、「出版はやめておこう」などと結論することなど、ありえないはずである。通常は、出版社や著者は、出版当時に真実相当性があれば出版自体には抑制的にはならない一方、その後新資料や新事実により記述に誤りが発見されれば(すなわち真実性も真実相当性もなくなれば)その時点で出版停止の措置をとれば大きな問題にはならないという考慮も働かせるのであって、真実性・真実相当性の法理をシンプルに適用するだけでも、原判決の指摘する「言論の萎縮」は生じないのである。すなわち、真実性・真実相当性の法理は、出版継続の場面でも、十分に表現の自由の保護の機能を果たすのであり、それだけ普遍的に有用な解釈なのである。

 ありえもしない「言論の萎縮」をもっともらしく「新基準定立の必要性」として掲げる原判決は、欺瞞に満ちているというほかはない。

     「主張・批判・再批判の過程の保障の必要」も理由として失当

 原判決の判決書122頁においては、新たな明白性等の基準を定立する必要性として、前記の,覆い鍬に続き、「い泙拭特に公共の利害に深く関わる事柄については、本来、事実についてのその時点の資料に基づくある主張がなされ、それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ、更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして、その時代の大方の意見が形成され、さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されていくというような過程をたどるものであり、そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。テ辰法公務員に関する事実についてはその必要性が大きい。Δ修Δ世箸垢襪函仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものであるとはいえず、これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものといえる」(注:きキΔ肋綛霄理申立人ら代理人が付した)と論じられている。

 このさ擇哭イ療世砲弔い討蓮抽象的議論としては一応首肯できる内容ではある。しかし、このような議論において「公共の利害に深く関わる事柄」とか「公務員に関する事実」として想定されている事柄や事実は、主張・批判・再批判を経て内容が深まっていくような評価的要素を多分に含むテーマのはずである。原判決が「大方の意見が形成され」、また「その大方の意見自体が時代を超えて再批判されていく」というように「意見」と表現するのは、そのためであろう。このような議論が妥当するテーマとしては、例えば、「太平洋戦争敗戦の最大の責任者は誰か」というような、事実的要素はもちろん含むもののそれに加えて様々な立場からの評価や見解をもって結論が導かれるものが考えられる。あるいは、「日本国憲法の条文はどのような過程を経て形作られていったのか」というような、個別の事実の積み重ねの解明が重要と考えられるものでありながらも、極めて複雑かつ多数の事実、関係する組織や人物、それらの行動や思考、背景事情等々が織りなされて一つの事象が形成されたという事柄であるがゆえに、高度な知見からの分析や情報の取捨選択を加えて実相を確定する必要があるテーマもそうである。

 しかし、そのような趣旨は、本件の焦点である「戦時中の、時期的にも場所的にも限定された具体的場面で、梅澤、赤松大尉が自決命令(無慈悲隊長直接命令)を下したか」という極めて単純な事実問題には妥当しない。「評価としての軍命令」の有無というテーマならば一応妥当はするであろうが、それは本件訴訟の争点ではないことは、原判決も認めているところである。特定個人の犯罪行為の有無なども同様に、主張・批判・再批判の過程をずっと保護すべきとは考えられないテーマである。それらは、「あったかなかったかはっきりさせる」ことが当人にとっても社会にとっても重要なのであり、「主張・批判・再批判の過程を経て見識を深めたり、多様な意見を形成したりして、後世にその成果を伝えていくことに意義がある」というようなものではない。

  そのような単純問題についても、真実が判明するまでに主張・批判・再批判の過程があってよいことはもちろんであるが、資料の発見や新証言等により、特定個人の社会的評価を低下させる事実が実は存在しないことが明らかになった場合には、判明したその結果を社会的に確定することが、本人の名誉にとって極めて重要であるとともに、社会全体からしても発見された真実が広く知らしめられるという大きな価値があるはずである。

  また、本件に即して言えば、「無慈悲直接隊長命令」の有無という争点については、今日までに主張・批判・再批判が繰り返され、資料や専門家の意見も出尽くしたといえる状況にある。その集大成が文科省の平成18年検定意見の内容なのであり(現に、甲B104の1頁に「とりわけ慎重かつ丁寧に調査審議を行ってきた」と述べられているところである)、この単純な事実問題について、さらに後世の再批判を待つべきという価値判断は働く余地はなく、むしろ通常の判断に基づき梅澤らの名誉等の保護が図られてしかるべきと思われるのである。

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上告受理申立理由書 第2
 上告受理申立理由書 第2

第2 『沖縄ノート』による上告受理申立人赤松秀一に対する、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否に関する法令解釈の誤り

1 はじめに

  赤松秀一の控訴を棄却した原判決には、下記2及び3のように、民法709条の解釈に関する重要な事項について判断を誤った違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄されるべきである。

 

  敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否についての法令解釈の誤り

(1)明白性等の基準を用いたことの誤り

  原判決は、赤松秀一の請求についても、梅澤の場合と同様、前記の明白性等の基準を用いて不法行為の成否を判断するとした。

 しかし、本件では、赤松秀一の請求についても、通常の名誉毀損と同様の基準すなわち真実性・真実相当性の法理をもって不法行為の成否の判断がなされるべきであり、原判決には民法709条の解釈に関する判断を誤った違法がある。また、赤松秀一の請求が、遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の要件論というこれまで最高裁判所判例のない事項が正面から問題になっているという意味で重要な事項を含むことも明らかである。

 一審、控訴審を通じて、上告受理申立人らが縷々主張してきたとおり、『沖縄ノート』において叙述されている赤松大尉による渡嘉敷島住民らへの自決命令の事実については、真実性は認められず(この点は、一審判決、控訴審判決も揃って認めているところである)、かつ、その事実は、昭和48年5月の『ある神話の背景』(甲B18)の出版により真実相当性を喪失していたものである(そのことは、平成18年12月発表の文科省の平成18年度の教科書検定意見や、平成19年12月の教科書用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会がまとめた報告によっても、確認されているといえる)。

 よって、真実性・真実相当性の法理に従って判断されれば、『沖縄ノート』による赤松秀一に対する、死者たる赤松大尉への遺族としての敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立は肯定されるのであるから、原判決のこの不法行為に関する民法709条の解釈の誤りが是正されれば、それが判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。

(2)本件で真実性・真実相当性の法理が用いられるべき理由

  遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の要件論についてはこれまで最高裁判所の判例がないが、少なくとも本件においては、その要件は、真実性・真実相当性の法理が用いられるのが相当である。

 理由は、一審の原告準備書面(3)16頁以下でも述べたところと一部重複するが、下記の諸点である。

  名誉権という人格権に由来する法益

   刑法230条2項で死者の名誉についての名誉毀損罪が定められているように、死者の名誉を侵害する行為が違法であって、かかる侵害行為から保護を図るべき法益(私的利益)が存在することは、明らかに認められる。その法益の内実は、死者自身の名誉と解する説もあるが、死者は法益主体ではなく、生存している人々の心情と無関係に死者の社会的評価を保護する必要は認めにくいため、遺族の故人に対する敬愛追慕の情と解する説が有力である。これまで、その見解に立って、遺族の故人に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為が成立しうることを述べた下級審判例は数多い。

    このように、「遺族の故人に対する敬愛追慕の情」の保護は、沿革的には「死者の名誉」の保護に代替するものとして解釈されて現れた理論である。すなわち、「遺族の故人に対する敬愛追慕の情」は名誉権に由来する法益であることは明らかであり、その侵害の不法性に関する判断枠組は、名誉毀損と同様のものが用いられるべきである。

  過去の下級審判例

  死者に対する名誉毀損行為により、遺族が死者に対する敬愛追慕の情が傷つけられ、精神的苦痛を被ったときは、遺族に対する不法行為として一般私法上の救済の対象となり得ることは、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(判例時報1071号33頁。小説「密告」事件)、東京地裁昭和58年5月26日判決(判例時報1094号78頁。受田代議士事件)等においても認められている。

  さらに、大阪地裁平成元年12月27日判決(判例時報1341号53頁。エイズ・プライバシー訴訟)も、当該事案においては、問題の報道は死者の名誉を著しく毀損し、かつ生存者の場合であればプライバシーの権利の侵害となるべき死者の私生活上他人に知られたくない極めて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露したものであり、そのような報道により遺族(死者の両親)は死者に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されたものである旨認定し、遺族の敬愛追慕の情という人格的利益の侵害による不法行為が成立することを、正面から認めている。

  そして、前記エイズ・プライバシー訴訟においては、違法性阻却事由については、「当該事柄が公共の利害に関する事実である場合で、かつ、取材及び報道が公益を図る目的でなされた時には、当該取材の手段方法並びに報道された事項の真実性又は真実性を信ずるについての相当性及び表現方法等の報道の内容等をも総合的に判断したうえで、遺族の個人に対する敬愛追慕の情の侵害につき違法性が阻却される場合がある」と判示し、基本的に、名誉毀損一般に関する不法行為の成否の判断(最高裁の前記昭和41年判決)にならった枠組みを示している。

  すなわち、これらの裁判例においては、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、特段に要件を厳格化したりするという判断はなされていないのである。

 『沖縄ノート』は赤松大尉生前からの出版であること

  相手方らは、遺族の敬愛追慕の情を害する不法行為の成立については、摘示事実の虚偽性について請求者側に立証責任を課すなどの厳格な要件を満たすことが必要とし、それを裏づける裁判例として、東京高裁昭和54年3月14日判決(「落日燃ゆ」事件)を挙げる。この考え方は、原判決の明白性等の基準に通ずるものがある。

 しかし、この「落日燃ゆ」事件は、死者が亡くなって44年余りを経てから死者の名誉を害するような事実について記述された部分のある著作物が初めて出版された事件であり、そのような相当に長い年月の経過があるという特殊な個別的事情に鑑み、「歴史的事実に移行した」事実については「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という判断から、かような立証責任の転換が図られたものである点に留意されねばならない。

 一方、本件についてみれば、『沖縄ノート』は、赤松大尉の生前に出版されたものであり、その時点では、摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではなく、「歴史的事実探究の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くない。

 その意味で、「落日燃ゆ」事件判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件あるいは類似の要件が適用されるべきであると考えるのは、失当である。

  ぁ 嵶鮖謀事実」であることに基づく要件の厳格化は不当

 相手方らは、死者に関する事実が「歴史的事実」に関するものである場合は、敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件のうち、虚偽性については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」あるいは「摘示された事実がその重要な部分において全くの虚偽であること」という形にさらに厳格化することが妥当と主張し、それを裏づける裁判例として、百人斬り訴訟第一審判決(乙1)及び控訴審判決(乙27)を挙げる。

 原判決は、それらとも異なる明白性等の基準を本件では採用したが、その内実は、「歴史的事実」について特殊な基準を用いているという点、そして「新たな資料等により当該記述の内容が真実でないことが明白になったこと」を要件の一つとしているという点で、百人斬り訴訟第一審判決及び控訴審判決と非常に強い類似性がある。

 この両判決は、「死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくもの」であり、「歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから、たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても、相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合には、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となる」(乙1・108、109頁。この部分は控訴審判決でも変更なし)という観点から、前記のような虚偽性の要件の厳格化を導いている。

 そして、両判決は、「本件各書籍は、両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり、問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は、既に、日中戦争時における日本兵による中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべき」(乙1・110頁。傍点は上告受理申立人ら代理人。この部分は控訴審判決でも変更なし)と判示して、厳格化した要件の適用をなしている。すなわち、事実摘示された本人の死後一定期間が経過している点を、当該事実が「歴史的事実」であると認定する主たる根拠としているのである。

 これに対して本件においては、繰り返しになるが、問題の出版行為は赤松大尉の生前に開始されたものであり、「相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合」には該当しないケースであることは、明白である。

 その意味で、百人斬り訴訟第一審判決あるいは控訴審判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件、あるいはそれに類する明白性等の基準が適用されるべきであると考えるのは、失当である。

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 梅澤に対する名誉毀損の不法行為が真実性・真実相当性の法理に従って判断されるべきことは、前記第1のとおりであるが、一審、二審とも暗黙のうちに自認しているように、梅澤に関する不法行為と赤松秀一に関する不法行為は、基礎事実が時期、場所、事象ともほとんど同一ないし一体であり、係争事件としても社会的課題としても共通の内実を有する紛争といえるし、真実の解明の度合いもほぼ同程度であるから、梅澤請求部分と赤松秀一請求部分については、不法行為の成否について同一の基準で判断するのが、妥当と考えられる。その両者についてことさらに異なる基準を用い、それがさらに結論の相違につながることがあるとすれば、当事者、関係者にとっても社会から見ても極めて大きな違和感が拭えないのではないかと思われる。

(3)明白性等の基準とその適用の不当性

  ア はじめに

  原判決は、赤松秀一の請求についても、明白性等の基準を適用して、退けるという結論を導いた。

  明白性等の基準自体の不当性や最高裁判例への違背等については、第1の3で論じたところであり、それは、原判決が赤松秀一の請求に対して明白性等の基準を適用した点にも批判として同じくあてはまる。

 さらに、明白性等の基準を赤松秀一の請求について適用する点については、梅澤の請求に対して適用するのとは別に、下記のような問題点も指摘できる。

  イ  適用場面の問題−「歴史的事実」化する前に真実相当性を喪失していること−

  上告受理申立人らは、前記第1の3(3)において、明白性等の基準の適用場面の規範における要件は下記の5点であると述べた。

 々眦戮文共の利害に関する事実に係り

  △發辰僂藐益を図る目的(で出版)

  H行当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ

 つ糠にわたって出版を継続してきた(ところ)

 タ靴靴せ駑舛僚亳修砲茲蠅修凌深太等が揺らいだ

  このうちの「タ靴靴せ駑舛僚亳修砲茲蠅修凌深太等が揺らいだ」という要件の、赤松秀一請求部分についての解釈とあてはめについては、深刻な問題がある。

 まず「真実性等が揺らいだ」との点は、「真実性及び真実相当性を失った」との意味であることは明らかであろう。原審の控訴理由書6頁以下、控訴人準備書面(1)5頁以下で詳論したとおり、出版が継続されている場合は、最新の名誉毀損行為時すなわち現在(事実審の口頭弁論終結時)が、真実性判断だけでなく、真実相当性判断の基準時にもなる関係から、真実性の存否と真実相当性の存否の結論が一致すると解される。そのため、真実性と真実相当性は同時に失われるのである。

  問題は、原判決は、規範へのあてはめの中で、真実性及び真実相当性を失った時期について考慮をしていない点である。

  前記規範によれば、要するに、「の後にい了実を経て、さらにその後、イ両況が発生した」ということが必要であり、そのような先後関係も暗黙の要件になっていると解されるのである。

  規範の書きぶりだけでなく理論的にもそれは当然である。すなわち、原判決の示した価値判断は、ある出版物が「真実性、真実相当性を長く保持してきた」ならばそのことに価値を認め、「その後に現れた」新資料により内容が覆ったとしても、その書籍の出版継続を直ちに通常の基準をもって違法とすることはせず、特別な基準で違法か否かを判断するべきというものである。要するに、「真実性、真実相当性を長く保持してきた」という点に、出版継続が広く許容される根拠を認めているのである。とすれば、前記の先後関係は当然に必要となる。

  しかるに、本件での『沖縄ノート』の自決命令の記載についての真実性及び真実相当性を巡る経過はどうか。『沖縄ノート』が昭和45年9月に出版された時点で真実相当性があったと仮にしても、その後まもない昭和46年10月から月刊誌「諸君」において曽野綾子による『ある神話の背景』の連載が開始され、昭和48年5月にその連載をまとめた単行本『ある神話の背景』(甲B18)が出版された。

 遅くともこの『ある神話の背景』(甲B18)の出版により少なくとも《赤松命令説》の真実性は完全に否定された、あるいはどう控えめに言っても、《赤松命令説》の真実性の証明があるとはいえない状況が生じたこと(例えば、昭和49年発行の『沖縄県史第10巻』〈乙9〉では「どうして自決する破目になったか、知る者は居ないが、誰も命を惜しいとは思っていなかった」〈690頁〉など記載されて『沖縄県史第8巻』〈乙8〉に記載のあった《赤松命令説》が削除された)は、上告受理申立人らがこれまで縷々主張してきたとおりである。

 その後も、『沖縄ノート』は今日まで長く増刷され続けているが、少なくとも《赤松命令説》について言えば、「早々に新資料が出現して真実性等が揺らいだにもかかわらず出版を継続してきた」というだけであり、「長年にわたって出版を継続してきたところ、新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだ」という経過では全くない。

 また、《赤松命令説》が本土に知られるようになったのが昭和40年(『沖縄問題二十年』の発行)ないし昭和45年3月ころ(赤松大尉が渡嘉敷島での慰霊祭に出席しようとした際の報道)であること、昭和45年、46年当時は、赤松嘉次元大尉(以下「赤松大尉」という)自身が自決命令を否定していた(甲B2、甲B20、甲B20・17頁等)ことも考え合わせると、昭和45年ないし昭和48年当時に《赤松命令説》が「歴史的事実」となっていたと考えるのは到底無理がある(なお、同じ慶良間列島で同時期におきた同種事案である座間味島の集団自決についての《梅澤命令説》も、やはり同様であろうと思われる)。

  にもかわらず原判決は、前記きイ陵弖錣寮荼經愀犬僚斗彑にあえて目をつぶり、『沖縄ノート』に摘示されている《赤松命令説》についても、これらの要件を満たすものとして判断しており、その理屈とあてはめには重大な齟齬があると言わざるをえないし、さらにいえば、結局のところ、この適用場面の規範も極めて恣意的な基準でしかないことが、自ずと明らかになっているといえる。

 明らかに疑義のない「歴史的事実」となってからの出版でありそれが死者の名誉に関するものであれば、遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為についても明白性等の基準のような厳格な要件も妥当する余地もあるが、本件ではそうではなく、通常どおり真実性・真実相当性の法理が適用されるのが相当である。

  ウ  「読まれ方変遷論」の不当

  原判決は、赤松秀一請求部分にも明白性等の基準を適用し、その第2要件である重大不利益の存否の判断において、「読まれ方の変化」を斟酌して、その要件は充足しないと結論しているが、原判決の考え方には、「本件各記述は今となっては一つの評価、意見、論評であると受け取ることができる。だから許容されるべき」との実質的考慮があるように思われる(前記第1の3(4)ウ(ア)cと同旨)。

 しかし、事実の摘示と意見ないし論評の表明との区別についての平成9年9月9日判決の基準をもって『沖縄ノート』の赤松大尉に関する記述を検討すれば、やはりそれも意見論評に尽きるものではなく、《赤松命令説》の事実摘示が含まれることも一審の原告最終準備書面(その1)13頁以下、19頁以下で述べたとおりである。

 『沖縄ノート』の赤松大尉に関する事実の摘示の内容が「評価としての軍命令であり、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長であるともいえる」などと原判決が述べることは信じがたいところである。同書においては、赤松大尉に関しては、「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている」、「集団自決を強制したと記憶される男」、「『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」、「若い将校たる自分の集団自決の命令」等の、個人の行為に関する具体的表現と、それを前提とした赤松大尉個人への非難が書き連ねられており、それらの記述は、一般の読者がどう読んでも「評価としての軍命令の記述である」と理解することは不可能である。しかるに、原判決はそれを可能かのように述べており、その点もやはり経験則や条理に著しく反する不相当な認定である。

    エ 名誉の捉え方について名誉感情等との混同

 原判決は、赤松秀一請求部分についての重大不利益の要件のあてはめにおいて、「本件各記述は、赤松大尉の遺族にとっても、個人の名誉に関する限りでは、もはや取り立てて取り上げるほどの痛痒をもたらさないものになっていたことを意味するといえる」(278頁)などと述べて、重大不利益はなかったと結論づけている。

 上記の判断には、そもそも、名誉権侵害の結果については本来抽象的危険で足りるところを具体的危険あるいは現実の社会的評価の低下を要求しているといった誤った解釈があり、また、社会的評価としての名誉と名誉感情の混同もあり、名誉権に関する基本的解釈の誤りを多分に含んでいるのは前記第1の3(4)ウ(イ)で述べたとおりである。

    オ 不利益性の認定の不当

  原判決の重大不利益の要件へのあてはめ自体も著しく一方的である(前記第1の3(4)ウ(ウ)bと同旨)。

 原判決は、本件各記述は、赤松大尉の遺族にとっても、個人の名誉に関する限りでは、もはや取り立てて取り上げるほどの痛痒をもたらさないものになっていたことを意味するといえる」(278頁)と、ひどく冷酷な認定をしたが、実兄が住民多数に無慈悲にも自決を命じたなどと歴史書や評論等に書かれて売られ続け、それが後世にも残っていくことについて、さしたる痛痒もないなどと受け止める人間がいようか。赤松秀一は赤松大尉を敬愛するその実弟であり、「兄の不名誉な書かれ方は耐え難い」とか「虚偽の事実をもって兄をなじるようなことはもうやめてくれ」という感情は、ある意味我が事以上に切実な面がある。

    カ 「故意過失の主張が欠ける」との指摘に対して

 原判決は、重大不利益のあてはめの最後の部分において「著者らの立場からすると、当時の通説に基づくものとして初めは真実性が問題とされることもなかった本件各記述について、その内容を新しい資料に基づいて再検討する機会もなかったものといわざるを得ず、控訴人らからはこれに関する故意過失についての具体的な主張もない」(280頁)などと説示する。

 しかし、名誉毀損の不法行為性に関する相手方らの故意過失、すなわち、真実性喪失の認識あるいは認識可能性という点については、一審、控訴審を通じて、上告受理申立人らは縷々主張立証してきたのであり、原判決がその点を理解していないことについては、上告受理申立人らと到底了解できない(前記第1の3(4)ウ(ウ)cと同旨)。

 《赤松命令説》について言えば『ある神話の背景』が話題になったことから、相手方らは隊長命令の記述が真実性等を喪失したことについて十分に認識しまたは認識可能であったのだから、故意過失は優に認められるし、その趣旨の主張立証を上告受理申立人らは十分に行っている(相手方大江は、『ある神話の背景』が発行されてすぐ読んだとも本人尋問で供述している〈大江調書39頁〉。相手方岩波書店が、旧版の『太平洋戦争』の昭和61年の第2版出版時に《赤松命令説》を削除したのも、《赤松命令説》が真実性を喪失したとの認識があったからであり、その旨の主張も上告受理申立人らは行っている)。

 前記のとおり、真実相当性の有無がすなわち(責任の次元での)故意過失の有無なのであり、真実相当性について主張立証が尽くされている本件において、上告受理申立人らに故意過失の主張が欠けるなどとする原判決の判断は極めて不当である。

    キ まとめ

  赤松秀一請求部分についてみても、全体として、原判決の判断は、「表現、言論の自由の保護」に傾きすぎ、「死者に対する敬愛追慕の情の保護」をあまりにも蔑ろにしている解釈であると言わざるをえない。

 

            
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author:osj2, category:-, 05:58
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